ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

記憶と実践:記憶と実践が織りなす共進化の物語


「また
 同じことを繰り返してる」
というと
なんだかつまらないことをしているようにも思えるけれど
生命は
基本的に
同じことの繰り返しからできている


繰り返すべきことの記憶があって
その記憶に基づいて
同じことを繰り返している


繰り返せているのは良いことで
繰り返すことが出来ないと死滅する


繰り返し
そしてまた繰り返しできることを
生命は
繰り返している


繰り返すことが出来ないことは
しても良いけれど
それは余暇である


繰り返すことを繰り返した上の余暇である


生命の繰り返される実践は
繰り返すためになされる実践と
それを為すための記憶からできている


桜の記憶は
夏に葉を拡げ
秋に葉を落とし
冬をやり過ごして
春花を咲かせる


桜にとって
その花が
人間の目を惹きつけたのはお手柄だった


惹きつけられた人間は
次から次へと桜を植えた


人間も生命として同じことを繰り返す


桜に惹かれ
次から次へと桜を植えた


「また
 同じことを繰り返してる」


人間と桜が
同じことを繰り返しながら
互いにもっともっと親密になってゆく


記憶と実践が織りなす共進化の物語

記憶と実践:認識の能動性がもたらす自由度


認識は
認識の対象と隔離されている


認識不足や
認識の齟齬が生じるのは
この隔離があるからである


そこで
何らかの実践を通じて
認識の対象にアプローチして
認識を改め続けてゆく


このように
認識は
認識の対象に対して
能動的である


この能動性には
いくつもの方向性があり
この方向へ能動であるのかにより
認識対象に対する認識は変わってくる


このように
認識は
認識対象そのものではなく
認識の能動性により派生した存在であることを
忘れてはならない


とかく
認識が正しいと盲信することがあるからである


しかし
この盲信が共同幻想を可能とし
社会を営むことが出来るようになっている


ここに
人間社会の能動的自由がある


認識は
認識者の自由により変化するものなので
認識の共有により創造される社会も
自由なのである


しかし
共有されなければならないという制約
認識対象から受ける制約を受けることになる


このような制約から逃れ
もっと自由になりたいと願うと
虚構の世界を描くことになる


認識の能動性が躍動する芸術の世界が
それである


受動的なだけでは
新たな創造は望めない


生命は能動的である


無くても良いものを
積極的に創造し続けている

記憶と実践:探し物の「ある」「なし」の派生について


「ある」ということが
「ない」ということに対峙している


対峙しながら
そのどちらもが頭の中にある


そして
どちらから優勢になると
もう一方は「ない」ということになる


「ある」がなくなる時もあれば
「ない」がなくなる時もある


「ある」がある時もあれば
「ない」がある時もある


探し物がない時には
「ない」「ない」「ない」とつぶやきながら探し
みつからると
「あった」「あった」と喜ぶ


この間
探されていた物は
ずっと同じように存在していたに違いない


認識と実体には
このような差異がある


探し物においては
「ある」「なし」の判断は
派生物なのである


この派生物たる判断は
実体の精査を進めることにより
その信ぴょう性が評価されてゆくことになる


探し物は
どこかに隠れていることもあれば
すでに捨てられ燃やされていることもある


どこまで捜査範囲を広げながら
いろんな人に聞き取り
探し物を捜すのかは
どんな探し物かにより異なろう


いずれにしても
探すという実践により
「ある」「なし」を判断してゆくことに相違ない


そして
探している間は
「ある」であったり
「ない」であったりするのである


ツチノコやネッシー


神様や
永遠の真理や
人生の意義も
あったりなかったりと諸説様々なので
そんな探し物の類に属するものなのだろう


実践や実態を置いておき
頭の中だけで考えるならば
あればあり
なければないのである


その判断の信ぴょう性は
まだまだ遠い未来に決まるのだから
今はどちらでも良いのである