ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

感覚と知覚の機械化


車を運転していると
車窓の景色が刻々と変化してゆく
この変化は
すれ違いの車の移動といった車外の変化と
乗っている車の移動の協奏だ


このような景色を
ただ漠然として見ているわけにはいかない
運転しているのだからぶつからないように
ハンドルやアクセルやブレーキを操作しなければいけない


このような操作のために
車窓の景色がこの先どう変化してゆくのか
それを予想しながら車窓を見ている


予想をするには
現在の景色だけでは不足で
過去の景色との比較が必要だ


過去から現在に至る変化の軌跡の延長として
未来を予想してゆく


このような作業を絶えず一連なものとして
実践しながら運転しているはずだ
車の運転は疲れるわけだ


このような疲れる作業を
機械が代わって実践してくれる時代になってきた


人間にしかできない高度な技術
そう思われていたものが
次々と機械で可能になってきた


さらには
原発の廃炉に向けた危険な作業など
人間にはできない作業を機械が分担できるようになってきた


外部の情報をいかに収集しそれを処理する
感覚とそれに意味付けを行う知覚の働きを
機械がまねできるようになってきたのだ


外部の景色を情報化し
情報化された情報を処理し未来を予想する


情報処理の速度がさらに進み
機械動作の機敏性が増してゆけば
猫じゃらしに上手にじゃれてくれる機械の登場も
夢ではないかもしれない


いつもでも子猫のままの猫
欲しい気もする


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メモ
谷徹著『これが現象学だ』講談社現代新書


現象学といえばフッサール
わかりやすく書かれていましたが
読むたびに新しい発見があります


自然科学が進展する時代背景の中
自然科学になくてはならい
「観察」の作業
これを分解し思考することをスタートとした哲学者だ


現在の自然科学の「観察」は
すっかり機械化されたしまったように思える
先入観のない機械によりデータを取り
先入観のないデータ処理により結果を導く


ところが
ねつ造の問題がでたりする


機械が高度化した弊害で
ねつ造技術も高度化したからだ


自然科学を基礎づけるため
「観察」よりも
「善」のイデアのようなものを
研究する必要もありそうだ


プラトンの時代も現在も
「善」はありながら
その実践が
必然ではなく蓋然に留まるのであろう


科学でも 政治でも 
善ばかりではない
むろん 家庭でも 職場でも


ありがとうございます

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