ホコリのような意識が集う場としての形而上
過去と
別の過去が
記憶の中でつながる
記憶がなければ
時間と時間はつながりながら
ただ流れ去る過去が
記憶の中で
反芻している
*
同じ光景は二度とない
けれど
似たような光景にはよく出会う
似たような光景を
過去から集めなおすと
そこには
似たような光景からなる歴史ができる
朝の景色
夕の景色
燕の景色
四季折々の出来事
同じ景色は二度とない
けれど
同じ出来事が繰り返される
*
雑多が集う景色の中から
繰り返される同じ出来事を抽出すると
当然に
同じ出来事が絶えず繰り返される
この同じ出来事を
一つの単位として
他の出来事と区別して思考する
これが存在の単位になる
世界は雑多の存在の集合体となる
特定の存在が
他の特定の存在との関係を
存続させている場合
この関係も存在として把握される
*
存在は把握される客体である
意識は
存在を把握しようとする存在である
存在であるので把握の対象ともなりえる
把握しようとする存在であり
かつ
把握される存在であるため
灯台下暗しに陥りやすい
地球から離れれば
地球は丸いとわかりやすいけれど
地球から離れられないと
地球の丸さを実感できない
実感はできなくても
地上の記憶が集まり
地球の丸さが観念することができるように
意識の全体像も観念されよう
*
地球も太陽も
意識も世界観も
物質の塊も
観念の塊も
雑多集まる世界の中の存在単位だ
記憶の中の一塊の出来事だ
意識は記憶の中をうごめいている
うごめきながら
記憶を整理している
意識は動いている
その動きの総称としての観念が
意識なのだろう
意識はホコリのように動き回る
ホコリのように動き回る意識が
ひとところに固まってホコリの塊になる
この塊が存在の単位になる
勝手気ままにホコリの塊ができるのではあるが
たまりやすい場所がある
ホコリのたまりやすい場の理論が
形而上学なのだろう
意識が同じであるためには
あるいは
同じ意識が存在するためには
意識の動きを制御する力が必要だ
ホコリができやすい場を作る必要がある
だからだろう
形而上学は目的論に陥りやすい
*
人により
意識が向く先に個性がある
ホコリのたまる場所が
違うだけで
さしたる違いはないのだろう
そのさしたる違いを大げさに取り上げて
掃除ができていない
整理がなっていないと
指摘しあうと紛争になる
障子の桟のホコリを
払う人もいれば
そのままにする人もいる
それを指摘する人がいる
障子の桟はたくさんあり
ホコリはもっとたくさんある
すべてを管理しようとする形而上は
とても大変だ