ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

「うんこ」という言葉はなぜくさいのか?


「うわー!うんこだ」
「逃げろ!逃げろ!」
「くさい!くさい!」


子供たちが騒いでいる


私も子供の頃
「うんこ」という言葉から逃げ回った


本物のうんこがなくても
「うんこ」という言葉さえあれば
くさいのであり
逃げ回る動機になる


こんな子供たちのじゃれ合いを
物質主義者は
「存在しない「うんこ」とじゃれ合うとは
 何とばかげたことだろう」と
批判するかもしれない


しかし
子供たちの頭のなかで
「うんこ」という言葉は
「汚い」「くさい」「逃げろ」などの言葉と
夢中で共鳴を繰り返すのだろう


このように
「うんこ」という言葉とじゃれ合い
子供たちは言葉の本質を知らず知らずのうちに学んでゆく


そして
言葉と現実の境界を
どんどんあいまいで混沌としたものにしてゆく


やがて
言葉は現実の一部として
しっかりとした地位を占めるようになり
現実主義的に
「言葉がすべてを語ることができる」とまで
言わせしめるまでに至る


「うんこ」という言葉ににおいはないはず
しかし、くさいという現実


人間には
言葉ににおいをかげる能力がありそれを覚える能力がある
そしてうんこを見て「うんこ」を覚える能力がある
そのことに感謝しなければならないのだろう
このような能力がなければ
うんこという言葉はくさくないであろうし
意識世界の発達しなかったであろう


現実に似てはいるものの現実から離れた
言葉遊びの世界を創造することも不可能だったろう


人間は
人間独自の創造物をたくさんたくさん持っている


言葉には魂がある


存在意義を客観的に証明しえない世界の中で
たくさんの魂が自己肯定を繰り返しながら存在している


この繰り返しの中で
「うんこ」という言葉もにおいを発しつづける

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