ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

トリプルワールド51


刺激に対して反応し
その反応が刺激となり
次の反応が生まれてゆく


言葉の形や
言葉の音が
意味を生むのも
形や音が刺激となり
反応が意味をひきだしてくれている


逆に
意味が刺激となり
言葉の形や音が反応として導かれてくる


猫という言葉が
猫との接触経験を呼び起こし
猫の色やこの柔らかさなどの属性を想起させる


このような想起の反応が
次々と誘引され
その履歴が文章として
形や音に変わってゆく


反応の連鎖が文章化され
その文章という刺激により
自由な連想が制限され
特異的な連想を反応として誘導するようになる


文章は自由を制限する刺激だ


このような文章を共有し
それに対して同じように反応することにより
生成されるイメージ世界を共有できることになる


他人同士でも
目から入る視覚に対して
同じように反応することにより
同じイメージ世界を共有する一方で
言葉に反応して世界を共有し
両者の一致をもって
同じイメージ世界を共有していると認識したりする


このようなことが
客観的な世界の共有が生成する過程で行われる


世界の共有の認識は多いほど客観性が高まる


共有する人の数ばかりではなく
反応の種類も多いくなければ
客観性は高まらない


人から聞いた知覚の反応と
見聞きした感覚の反応が一致すると
客観性は飛躍的に高まる


逆に
見聞きしていた猫について
他人から自分の経験と同じような話を聞くと
思い出の中の猫が生き生きと蘇る


そこで
A cat is a cat.
猫は猫である
という文章を考えてみたい


猫は猫であるというのは
何の変哲もない真である

最初の猫が言葉としての猫であり
次に現れる猫が記憶としての猫ならば
同一ではないという意味で
「猫は猫である」は真とは言えなくなる


言葉としての猫は意味としての猫ではない


これを省略すれば


猫は猫でない


ということになる


まあ
言葉の遊びだ


反応の限定を緩くして自由度を増して解釈すれば
言葉の世界に遊びが拡がる


Be動詞は
そんな反応の遊びを記録可能にしてくれている
大事な単語だ


観念的存在が反応であれば
反応は観念的存在である


左の反対が右であれば
右は左の反対である


AはBであれば
BはAである


AをわざわざBと言い直すことに
Beの存在価値がある

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