ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

能動的反応:客観的思想と主観的思想


死んでしまいたいと思うことがある


けれど
死んでしまうには
越えなければならないハードルが
たくさんあるから
死んでしまいたいと思っても
なかなか死ねるものではない


痛くないか?
苦しくないか?
そんなことを考えると
なかなか死ねない


私が死んだら
彼はどうなるだろう?
あいつはほくそ笑むだろうか?
・・・やはり
   なかなか死ねるものではない


思考というものは
死を避けるように機能している


生きるということを
幸せなことなのか
不幸なことなのかを
功利主義的に採点すると
生きることは
幸せな行為ではない
寧ろ不幸な出来事だ
・・・という議論があるらしい
だから
死んだ方がいい・・・というのはあまりにも過激なので
せめて
新しい命を生むことをやめ
新しい不幸の芽を育てないようにすべきだという
「反出生主義」という思想もある


たとえ
不幸であっても
死へ向かうハードルが高いので
何だかんだと生き抜いている・・・
そんな現状を
誰もが感じることができるし
だれしも
「こんなに苦しいなら死んだほうがましだ」と
考えたことがあるだろう


このようなことが
この「反出生主義」の背景にあるのだろう


こんな思想など無いかのように
意識は
生きることへの希望を描き
死ぬことへの恐怖を描いてくれるからありがたい


客観的で絶対的な尺度で
希望を描き
恐怖を描くのではない
人が生きるために必要な希望を描き
死なずに済むために必要な恐怖を描いている


このような前向きな幻想の中で
人は生き生きと命を紡いでいる


客観性や
絶対性を重視するのではなく
夢や希望を描く思想が命を救う血の通った思想である


このような思想に対して
客観性や絶対性を大切にする科学は
時に冷酷な思想として非難される


冷淡さをも含有する科学の成果から
都合の良い部分だけをすくいとり成立する
偏った暖かな血の通った思想の中で
社会は成立している


そうでなければ
人間が生き辛い社会になるのだろう


それでもなお
生きることは
努力を強いられる苦しい営みだ


何しろ
あるがままでいれば死んでしまうのだから
生きるために決められた流儀に従い
努力を続けなければならないのだ


その中で
あるがままの自然から偏り
カエルはカエルらしく
蠅蚊は蠅蚊らしく努力を重ねている


人間の偏った思想も命のもがきだ


偏って
もがき続けることが貴いのだ


もがき続けられるように工夫を重ね
どんどんと偏ってきた思想に頼りながら
人間は生き延びてきた


生きるという目的に叶った思想が
生きる人間により選択されて続けてきたということであり
これからもそうしなければ
人間は衰退してしむだろう


客観的な思想は
生きるためのものではない


生きるためには
主観的な思想が必要だ

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