ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

円環創生因果:成長による円環の相互依存的重層


私を正確に文章として表現しても
その表現された私は私ではない


過去に表現された私であるから私でないのではなく
そもそも私は文字ではない


過去の私の写真も同じで
表情豊かな生き写しの写真であっても
私は色の集まりではないのだ


しかしながら
そんな私ではない私を描いた文章や写真に触れると
昔の私を懐かしむことができる


この懐かしさの中で
私は文字や写真に私を重ねる


この延長として
私のコピーができたとしたら
そのコピーに私を感じ取ることができるのだろう


若いころの私のコピーが若々しく動く回る姿を
年老いた私が眺めても
そのコピーに今とは違う自分を懐かしむことはできるのだろう


しかし
そのコピーを自分であるか?と問われたら
否と答えるだろう


私は私という現象の円環の中にいる


文字や写真や私のコピーは
強く牽連してはいるものの
私の意識としての円環の外にある存在であり
外部の知覚対象に過ぎない


私という高密度の円環の渦は
意識や手足を同じ場所にとどめ
同じ時間を
高密度で吹きすさみ合い
私を維持している


私という意識はこの渦の中にあり
意義があり
この渦から離れれば
おそらく存在さえできぬのだろう


この私という高密度の渦の中で
私の手足は育ってきたし
私の意識も育ってきた


だから
手足や意識は共進化の関係にあり
互いにとても適応してくれている


この適応関係に破綻をきたしたら
高密度の渦で維持されている私という渦に乱れが生じ
ともすれば渦が力なく消滅してしまうかもしれない


私は私の円環の中に存在する


円環の中で
高密度の相互依存関係の一翼の担っている


この依存関係を寸断された存在は
がけ崩れで寸断された交通網のように
意味のない存在になるのだろう


鉄道のレール一本は
他のレールと連なっているから意味があるのであり
他のレールと切り離されると
使うことができなくなってしまうのだ


私の写真や
私のコピーは
私から派生したとしても
私からすれば
時たま触れる存在だ
関係も濃密ではない


毎日で出会う太陽の光よりも
遠い存在になるのだろう

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