ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

円環創生因果:自由と不自由


水は
低温にさらされると氷になり
高温にさらされると水蒸気になる


氷でいるのか
水でいるのか
水蒸気でいるのかは
水の自由だ


自然の中で
水は自由気ままに
氷でいたり
海水でいたり
淡水でいたり
水蒸気でいたりする


そんな自由気ままな水が
人間にとらえられると
時として無理やり
氷にされたり
水蒸気にされたりする


人間は人間が持つ技術により
水の置かれた環境を変え
無理やり氷に変えたり
水蒸気に変えたりする


水そのものを変えてはいない
水の置かれた環境を変えるのだ


冷蔵庫ややかんのなかで
水は氷や水蒸気に変わってゆく


このようにして変わってゆく水は
不自由なのだろうか?
それとも
自由であり続けているのだろうか?


冷蔵庫ややかんから解放された水たちは
再び自由気ままにその姿を変えてゆく


水も
人間に囚われている間は
自由気ままではいられない


人間の創り出した何らかの円環の中で機能を発揮するため
無理やり氷や水蒸気にさせられているからだ


蒸気機関車に取り込まれた水は
水蒸気になりピストンを動かさなければならない
冷蔵庫で冷やされた氷は
レストランのコップの中で
一緒に入れられた水を冷やさなければならない


役割が水に付与され
蒸気機関の機能の一翼をに担い
レストラン営業の一翼を担いながら
人間に囚われた水は働かなくてはいけない


私の体の中に取り込まれた水も
私の機能の一翼になってくれている


私の意識も
そうした水によっても維持されているのだろう
水が枯渇すると
私の意識は水ばかりを欲しがるようになってしまう


私が取り込んだ栄養素も
私の志納の一翼を担うために
不自由を強いられているのだろう


役割を果たすということは
不自由の上に成り立つ秩序だ


自由を求めることは
役割を果たしたくないということなのだろう


自分が果たしたい役割があり
自分が義務付けられた役割があると
果たしたい役割を果たす時には不自由を感じないけれど
義務付けられた役割を果たす時に不自由を感じる


義務付けられた役割を果たしていると
自分が果たしたい役割を演じることができないからなのだろう


そう考えれば
果たしたい役割があるから
自由や不自由という感覚が生まれてくるとも考えられる


本来
自分がやりたいことをやるにも
自分に不自由を強いることにもかかわらず
不自由ではなく自由を感じるところに
自由や不自由の言葉の使い方の齟齬が生まれてくる


自由になりたいという時
何もしたくないという自由と
自分がやりたいことをしたいという
2種類の自由が混在しているということだ


いずれにしても
生きるということは不自由なことであるにもかかわらず
不自由を感じずにいられることは
ある意味
とても幸せな状態と云えるのだろう


命が仕組んだ流れに沿って
水の流れのように生きているからだ


円環は規制という不自由により成立するけれど
その流れが滑らかに進行していると
この不自由が自由へと昇華してゆくのであろう


嫌なルーティンも
その流れが滞ると
酷く不自由に感じてしまう


囚われるなら
徹底的に囚われれば
かえって自由な心持ちにもなれる、、、のかもしれない

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