ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

予定と実践:ウェルテルやコウモリの葛藤


社会には
社会としての形而上があり
この形而上を維持するための調和が予定されている


個体にも
個体としての形而上があり
この形而上を維持するための調和が予定されている


この2つの形而上の間で
予定調和が一致していると良いのであるが
不一致があると葛藤が生まれ
若い情熱のまま世間に向き合い打ちのめされる
「若きウェルテルの悩み」のような小説も生まれる


また一方で
社会と別の社会の間で
それぞれの間で予定調和が一致していると良いのであるが
不一致があるとやはり葛藤が生まれ
どちらにも良い顔をしようとすると
イソップ物語の「卑怯なコウモリ」のようになってしまう


鳥の世界にも
獣の世界にもいい顔をしたいのは
とてもよくわかる心境である


このコウモリの不幸は
鳥の世界と
獣の世界が喧嘩をしているところから始まった


争っているから
相手を非難しないと仲間になれないようなところがあり
仕方なく相手を非難したのかもしれない


それでも
この非難したことが仇となり
鳥の世界と
獣の世界に和解が生じた時
コウモリはどちらをも非難した卑怯者とされてしまったのである


わたしは
このコウモリが残した教訓は
どちらの世界にもいい顔をしてはいけないということではなく
やたらと強弁をふるい相手を批難してはいけないということだと考えている


いい顔をすることは調和への道であり
批難は調和から遠ざかる道であるからである


コウモリは
自らの行った批難により
居場所を失ったのである


ウェルテルが
現実を受け入れず自らを突き進み
居場所を失ったように
一つの形而上にばかりに傾倒し
他の形而上を否定することのリスクを
「卑怯なコウモリ」は教えてくれているのである


生き物は
何としても自分の居場所を確保しなければ生きていけない


強弁をふるう独裁者は
強弁をふるえる境遇を失った時
ウェルテルやコウモリのような境遇に陥ることになる


日本の恥の文化は
こうした教訓を生かした文化ではなるのだろうが
社会の国際化の中では
過ぎたるは及ばざるがごとしになってしまうのかもしれない


ところで
強弁を戦わしていた
鳥の世界の王である鷲と
獣の世界の王ライオンは
強弁を駆使していたにもかかわらず
コウモリのような苦境に陥らず
幸せに暮らしたようである


強弁を下げ和解した功績ということなのだろう


王たるものにとって
引き際もまた大きな課題ということなのだろう

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