予定と実践:仮定としての存在がもたらす運不運
「もし」という仮定が存在するのは
状況が一定していないことに遠因があり
目的因を鑑み
その状況にあわせた対応をとるためである
運動をすれば
呼吸が激しくなり
休めば
呼吸はゆっくりになってゆくのも
「もし」の仮定が幾重にも機能しているからに相違ない
「もし」が存在しているのである
お風呂のお湯がぬるければお湯を足し
逆に熱ければ水を足すのも
「もし」が存在してこそである
「もし」は
来たるべき状況変化を前提として予定してる
この意味で
来たるべき状況変化も
来る前から存在しているということになる
オタマジャクシがカエルになるという
主体が持つ主体自身の予定の外に
オタマジャクシが成長するころ
水が温かくなり
たくさんの藻がはえるという
主体の周辺の状況も
主体の予定の中に入っている
このような
主体以外のことに関する予定が実現しなければ
カエルになるという予定も不確かなものになってしまう
ここに主体の運不運が生じることになる
主体にはいかんともしがたい状況も
主体の予定の中に入っているからである
この主体が予定しながらも
いかんともしがたい領域の事柄を
主体は待つことになる
ただ闇雲に待つこともできるし
祈ることもできる
来たるべき状況をいつ来るのか予測することもできる
この状況を呼び込むような原因を実践することもできるかもしれない
「戦争になったらどうしよう?」
この疑問文を
子供の頃
漠然と考えたことがある
戦争が存在していたのである
「もし」の世界での存在なので
ただ考えればよいだけだった
その考えが正しかろうが過ちであろうが
ただ考えればよいだけであった
ただ考えればよいだけで
戦争に対処して
何らかの実践を行う必要がない
たいへんに
幸せなことである