予定と実践:神様がいるということはどういうことか
「あの人は偉い人だ」と考えることと
「神様は居る」と考えることに
大きな違いはないのであろう
としてみる
どこからどう見ても「偉い人」は居るのであろうか?
誰から見ても「偉い人」は居るのであろうか?
居るとしたら
それはどんな人だろう?
それは
きっと神様のような人だろう
なんとなく偉い人と
絶対的に偉い人には大きな違いがある
絶対的に偉い人という形而上の下に
なんとなく偉い人という形而下があり
なんとなく偉い人は
大統領とか
神父様とか
総理大臣とか
学者とか
大僧正とかを想像できるが
絶対的に偉い人となると
よくわからなくなる
しかし
そんな絶対的に偉い人を想定しながら
子供に向かって
「偉い人になれ」などと漠然と述べたりする
偉い人の具現化は
子供に丸投げしながら
「偉い人」を目標として持つよう勧めるのである
「神様」に恥ずかしくない生き方を勧めるのも
同じように
具現化を丸投げにして
高尚な生き方をするようにと提示している
ここにおいて
「偉い人」も「神様」も
漠然とした目標であり予定とすべき対象となる
あとは
それを実践する努力が残ることになる
「偉い人」や「神様」を心に宿し
努力を重ねるのである
そうした生き方を出来るように人類はできているらしい
この生き方の中で
偉い人が存在し
神様が生きている
「あの人は偉い人だ」と考える能力があるならば
きっと「神様」も創造できるのである