ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

大樹の陰にある個人の尊厳


時間とともに
秩序は劣化する
これに抵抗するために
崩壊を上回る速度で
秩序は形成され続けなければならない


子供の成長は
劣化が形成を上回る形で秩序化が進む状況だ
第一線で成長し続ける人々も同じだ


反対に
秩序化を怠ることもある


久しぶりに車の運転をすると
事故を起こさないかと不安になったりする


身体能力だけではない
言語能力もその例外でなく
日本語から遠ざかっていると
日本語が不得手になる


ひとりの世界で鍛えられる分野もあろうが
他の人との関係の中でしか鍛えられない分野もある


適応するということ
共役するということ
細胞が身体の中で実践しているような事柄が
個人が社会の中で鍛えられ
個人が社会化されてゆく


このようにして
個人の中の社会が大きく成長し
立派な社会人になるのだけれど
あまりに立派に社会化されると
個人の自由が迫害される


ここに
社会から離れ
ひとりの世界で
何かを鍛えることの意義があるのだろう


ーーーーーー
メモ


理屈と米粒はどこにでもつく


自分を正当化する理屈は
ごはん粒がどこにでもつくように
何とかひねり出せてしまうという意味だ


自分ではなく
他人を正当化する理屈もひねり出せるのだろうが
どうしても自分を正当化する理屈の方に
一生懸命になってしまう


秩序はこのような努力により
維持されている


脳みその中の秩序は
独りよがりの理屈でも成立し
ひとりで形成し続け劣化に抗することができる
しかし
社会の中の秩序は
個人の独りよがりの理屈の集団としての束において成立する
よって
独りよがりでは済まされない


一粒のごはん粒でくっついた理屈は
10粒のごはん粒でくっついた理屈より剥がれやすい
100粒のごはん粒の理屈の方がさらに剥がれにくい
こうして
主流派がマイナリティーを抑え込んだりする


こうした状況に陥ると
「過ぎたるは及ばざるがごとし」と
言いたくなるのだが
どの程度を「過ぎたる」とするのかも
米粒のような理屈なのだから
寄らば大樹の陰になってしまう


となると
個人の尊厳は
どうしても
大樹の陰に育つということになってしまうのだろうか?
・・・少なくとも育ち易くなってはいるのだろう

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