ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

ムンクの「叫び」


「朱」
という黒色の文字に反応して
朱色を感じることができる


とすれば
『「朱」は黒色である』という命題も
『「朱」は朱色である』という命題も
共に真とすることはできるだろうか?


であれば
「黒色は朱色である」と演繹できる


とすれば
朱に交われば赤くなるのだから
黒に交わればやはり赤くなるのだろうか


言葉は
現実世界の一面しか表現できない
だから
言葉は屁理屈の温床になる
このため
屁理屈を排除するために
言葉を現実に投影してみたくなる


言葉を現実に投影させてみたり
現実から言葉を投影させてみたりして
工夫を重ねながら
デッサンをする
すると
より正確な屁理屈が出来上がる


輪郭は正確か?
色の濃淡は正確か?


キャンパスに描かれたモデルと
現実のモデルの関係を
画家が丹念に築いてゆく
ある意味
キャンパスに描かれたモデルは
洗練された屁理屈だ


この屁理屈に「美」と「醜」があるのは
それを眺める人の反応であり
屁理屈そのものに「美」と「醜」があるわけではない


この「美」と「醜」も屁理屈だから
絵画を批評する美術評論家の話を聞く人により
その批評の良否が反応として創生される


噺家さんは
その日のお客様がよりよく反応するように
その日の客席の雰囲気に応じて演目を決めるという


自分が話したいことを話すのではなく
相手が聞きたいことを話すという姿勢だ
これは
言葉を現実に投影する
一つの施策である


ーーーーー
メモ


現実に戻したときに
生き生きと反応してもらえる言葉が
良い言葉である
これは
現実主義的な「良い」の定義だろう


より多くの人が
より生き生きと反応するようなことは
良いことだ


それが何かを
プラットホームに集められたマスデータを
AIが解析して
答えを導き出すような時代になってきた


わたしたちの行動がモデルであり
計算結果が絵画であり
AIが画家である


この導き出された答えは
わたしたちに投げ返され
それに私たちは反応して
良いAIか考えたりするのだろう


ムンクが描いた「叫び」が
東京にやってきた
ぜひ
眺めながら
「何を叫びたいか?」
感じてみたい


現実の叫びであろうか?
それとも
観念の叫びであろうか?


***


後日
実際「叫び」を見てきた


「画家は楽しみながら
 これを描いていたに違いない」


そう思うと
「叫び」が鎮まり
その残骸が
鐘の音の余韻のように
静かに響いた


たとえれば
記憶になった激痛が
そのまま再現されることなく
現実的に蘇る意識の響きだ


羊の皮を被った狼さながら
現実の皮を被ったさまざまな記憶たちが
社会を闊歩しながら
社会を動かしている


この意味で
宗教も法律も経済も政治も
そして哲学も科学も
偉大なる芸術作品だ


好き好きがある


統制すればするほどに
好みが先鋭化するから
時代が流れる


好みにあわせるのか?
好みを押し付けるのか?
好みを制限してるのか?


・・・・今の状況を考えてみる
・・・・やろうとしていることを
    もう一度考えてみる


後で
「グャーーァーーァーー」と
叫びたくならないように
「本当にほしいものは何?」
そう
もう一度考える


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