ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

社会化としての自己擬制


白い蛇を神の使いと見做す


このような擬制により
象徴が維持される


言葉も象徴であるという


この色を「白」と見做すという擬制を
皆で共有することで「白」が意味を持ち
便利に使用できるようになっている


私は私であるけれど
世間様から見れば
様々に見做されている
「男」であったり
「自営業者」であったり
「50代」であったり
「日本人」であったりする


「女性は女性に生まれたのではなく
 女性に仕立て上げられるのだ」
フェミニズムを象徴する言葉だ
この言葉に触れると
新川和江さんの
「わたしを束ねないで」という詩を思い出す
そして
わたしも束から解放され
風になり果てしなく流れてゆきなくなる


しかしながら
そんな主観を持ちながらも
「おじさん」という満員電車のなかの
さえない乗客の一人であるという枠の中に
しっかり収まっているのが客観なのだろう


ーーーーー
メモ


法的擬制により
養子により
新しい親子関係が成立する
新しい調和の関係だ


発生の過程で
男性の身体と
男性的な思考が付与され
調和的関係が成立する
発生学的な自己擬制だ
身体においても
心においても
「男」が擬制されれば
予定調和がうまく機能したといえる
しかし
うまくいかないこともあるらしい
LGBTだ


擬制は所詮付与される性質である
完全無欠ではない
枠に収め
束ね
秩序を維持することも大事だが
束から解放され
飛び立ちたい気持ちも大切だ


法律は絶対ではない
しかし
調和を導く道具の一つである
ないがしろにはできない


許容できる枠を見つけ
自愛してゆくことで
折り合いをつけてきた、、、つもりでいる
むろん非難されるところもあるだろう
しかし
きっと
これからも
自分なりの折り合いを
志向してゆくことしかできぬのだろう


我慢もあり
自由もある


あちらの仲間の束から
こちらの仲間の束へと渡り歩き
なんだか
ポリシーのないことも
自覚無しにしてしまっているだろう
そんななかで
おじさんが若者ぶったことまで
ついついしてしまうのだ


日本人だから・・・するのが当然だ
そんな擬制のなかにおしこめられることもある


そんな擬制の犠牲になる人がいる
決して皆が良いということにはならない


いいことが沢山あっても
いやなことほど記憶に残るのだから
世はいつだって世知辛い

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