ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

小さな自由と大きな自由


見たいものを見て
聞きたいものを聞く
そんな時もあれば
見たくないものを見て
聞きたくもないものを聞く
そんな時間もある


やりたいことを
やる時間もあれば
やりたくないことを
やらなければならないこともある


見たいもの
聞きたいもの
やりたいこと


見たくないもの
聞きたくないもの
やりたくないこと


見ているもの
聞いているもの
やっていること


それぞれ別の存在であり
それぞれが関連し連携している


こんな連帯が私の中にあるのだけれど
これら以外に
私の外部からは
私に見せたいもの
私に聞かせたいもの
わたしにしてもらいこと
そんな存在たちが私を囲って
私を侵略してくる


まあ
そんな外部の存在たちもなければ
私の中の見聞きしたいものたちも
さぞ退屈してしまうのだろう


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メモ


見たいものや
聞きたいものが
やりたいことが
どこからやってくるのか、、、
わからなくなる時がある
なぜ
そうしたいのか???
なぜ
未来を描くのか???


いつの間にか
都合の良いものと
都合の悪いものを区別している
その根拠が
わかっているようでわかっていない
そう感じる時がある


「見る」「聞く」「行う」だけではない
思考も
同じだろう


考えたいこともあれば
考えたくないこともある


外部を遮断して
考えてばかりいると
都合の良いことしか考えなくなりそうだ


外部からの自由が過ぎると
かえって
自由に思考の範囲が広がらず
何かに規制されているのかのように
都合の良い心地よいことばかりを思考してしまう


このような
都合がよいが創り出す志向性から解放されるためには
私の枠から飛び出すべく
外部からの刺激を正面から受け取ってゆかないと
かえって
「自由なる全て」が制限されてしまう
・・・ということだろう


広く大きな自由を求めるためには
「都合がいい」の壁を打破する力が必要だ


勉強は
嫌なことも覚えたりする
苦行になったりもする
だが推奨される
これは
この辺の事情によるのだろう


「自由なる全て」に近づくために
自分以外の存在を頼る


自分の中に
制限された小さな自由から逃れるために
自分の外にある大きな自由がもたらす
都合の悪い自由にも
目を向け続けなければならならぬのだろう

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