ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思う故の存在と見る故の存在を比較してみる


意識には
言語化している意識と
言語化されていない意識がある


アナウンサーの研修に
見ている景色を
言葉にしてゆく訓練があると
聞いたことがある


アナウンサーのように
流ちょうな言語化はできないが
「あ、車が来た」
「やっと雲間から陽が出てきた」などと
頭の中で言葉をつづっている


知覚を言語化している


小鳥の歌声を
文字にすることもある


「ギャー」とか
「ウー」とか
感情を言語化することもある


「もっと軽やかに」
「もっと激しく」等々
手の動かし方や
指の動かし方も
足の運び方も言語化する


言語化しなくても
意識として存在していることの中から
言語化するものを選び取り
言語化しているようだ


意識は
個人の記録だけれど
言葉は
社会の記録になる


意識は
個人内の存在であるけれど
言葉は
個人の境界を超えた
社会の存在である


このような存在形式があるので
言葉が個人間を繋げることができる


言葉は
意識の自由を
社会へと広げる窓となり
社会の制約が
個人へと浸透する窓になっている


大きな窓のある部屋もあれば
小さな窓しかない部屋もある


窓には
透明なガラスであることもあり
すりガラスであることもある


ともすれば
ステンドグラスのように
窓が絵になっていることもある
そうなっていれば
いつも同じ景色が窓から見える
安定している


安らかでいるとは
そういうことなのだろう


透明なガラス窓の向こうに
いつもの景色が見える


いつも見ている景色だけれど
窓のカーテンを閉めて
その景色を画用紙に描こうとしても
上手く描けない


「いつも見ている景色」と言語化された風景は
「いつも見ている景色」という言語であり
「いつも知ている景色」という景色ではないようだ


言語化された意識と
言語化されていない意識が
窓の向こうの景色を描いている


窓の向こうの景色と
画用にに描いた記憶の景色が
同じものとは思えない
どちらかが真実で
どちらかが虚偽なものなのだろう


帰納法的に
再現性が高いものを
真実とするのが合理的なのだろう

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