先入観を取り払って考えるということ
身体が泳ぐようにできていないから
泳ぎながら
うまく呼吸をすることができない
だから
我慢をするか
息継ぎをする技術を体得するかしないと
うまく泳げない
泳ぐときには
口の替わりに呼吸する穴が
クジラのように
背中の側についていれば便利に違いない
一層の事
目も背中の方にもついていれば
水の中で目を開けなくても済むかもしれない
このように
泳ぐという普段あまりやらないことをするときには
自分の身体の不便さと向かい合わざるを得ない
反して
普段の生活では
自分の身体機能の不便さを
あまり痛感しないのが一般的だ
この理由として
①精神が普段の生活に慣らされているのか?
②身体が普段の生活に適応しているからか?
大きく二つが考えられる
①は主観的で観念的な理由で
②は客観的で科学的な理由になろう
どちらも立派な理由だ
互いに不足をカバーしあわなければならない関係で
こっちが正しい
あっちは間違いだ
こっちが原因で
あっちが結果に過ぎない
と議論する問題ではない
普段の生活でも
水を飲みながら呼吸をすることができない
これは誤飲して肺に水が入らないように
動作として制限されているからだ
空気が通る道と
水が通る道が交差しているから仕方なく
普段の生活でも動作が制限されている
この動作の制限に不便をあまり感じずに生活している
このことの説明としては
②の説明より
①の説明の方がしっくりくる
②の説明戦略からすると
水が通る管と
空気が通る管が別々になる方が合理的だからだ
このように
①の理由で
不便をあまり感じずにいることがたくさんある
それに気づき改善してゆくと
便利さが一つ増えてゆく
逆に言えば
主観には
不便さを覆い隠しながら不都合を隠し
都合の良さを強調するところがあるらしい
政治家の性質も主観に無論
主観に起因する
観念も同じだろう
科学に馴染むと
観念のそんなところが気に入らない
でも
科学者も主観の生き物
この罠に
陥っていることが
たくさんたくさんある
だから
これからも
科学的な発見が
次々となされてゆく余地が隠されている
人間の
身体にも
精神にも
まだまだ改良の余地がたくさん残っているだろう
私の中にも
潜在が
たくさん残っているだろう