ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:感覚による目的の重層化


味覚は
食べてはいけないものを忌避するために
機能している



「食べれる」と感じずに
「美味しい」とか
「不味い」」と感じる


このような感覚のお陰もあって
食事は
栄養を摂るという目的とは異なる
おいしさを味わうという目的をも提供してくれている


感覚により
目的が重層化しているのである


こうして
生きるという目的以外に
感覚的な満足を得ることに
目的を持てるようになっている


そうならば
この目的に心酔する意識は
感覚により創造された目的に
振り回されている存在ということになる


感覚由来の目的に心酔する意識が
生きることにも通じているから
美味しいといった感覚も淘汰されず選択されて来たのだろう


このように考えると
動物も
生きる以外のことに喜びを
感じているのだと考えた方が
自然に思えてくる


なるほど
縁側の猫は幸せそうである


それに
好物の餌を与えるとき
猫が小躍りするように駆け寄ってくるその様は
まさに喜びを体現している姿に見て取れる


理性が
目的達成のために
右往左往して道を切り開くものとして
その理性の背景としての形而上には
感覚が創造した目的があるということになる


はたして
感覚のない理性は
目的を追うことはできるだろうか?


感覚以外にも感情というものがある


負けたくないといった感情は
もっと言葉や物事を覚えたいといった意欲も
感覚のない目的なのかもしれない


こうした感情や意欲も
目的を創造しているといるに違いない


こうした目的は
AIにも想像できるのかもしれない


とするならば
AIにも目的を創造する可能性があるのかもしれない


AIも褒められると
喜ぶのだろうか?


AIも鍛えれば
また褒められたいと思うのだろうか?

思考と実体:芸術と五感の関係について


言語が
視覚や聴覚に依存しているように
芸術もまた
視覚や聴覚に依存している


五感の中で
視覚や聴覚は
遠いところを知覚するための遠感覚といい
味覚や触覚は
ごく近いところを知覚するための近感覚ということがある


臭覚は遠感覚とも近感覚ともいえよう


近感覚は
食べられるものか
そうでないかを分別する機能があり
生きることに直結した機能を発揮している


遠感覚は
生きることというよりは
より良く生きることに結び付いている機能である


だから
視覚や聴覚は
近くではなく
より遠くへ
よりよく生きる夢を運ぶことができるということになる


芸術がもたらす高尚な心持は
この視覚や聴覚による
より遠くへいざなう機能のお陰であろう


時には
このような機能のお陰で
生きることからも離れることも出来るのだろう


生きていながら
今の生を離れる幻想の中に浸ることが出来れば
そこに芸術のひとつの本懐があるに違いない


芸術的な料理には生きているといった
実体的な喜びを感じるのに対して
絵画や音楽への陶酔には
どこかの別世界への陶酔といった
現実離れした幻想的な喜びが忍び込んでいる


ここではないどこかの遠くへ行きたい
そんな気持ちを
ここにいながら満たしてくれている

思考と実体:五感と言語の関係について


言葉には
文字としての形と
発生の音とがある


形と音の関係は
言語圏で代々引き継がれているものであり
その関係性は経験的なものであって
言葉が生まれる前から運命づけれたものではなさそうである


さておき
人間には
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の5つの感覚がある


メジャーなものとしては
このうちの視覚と聴覚が言葉と結びついている


マイナーなものとしては
点字における触覚がある


手話における身振り手振りは
文字ではないものの
形に属する部類のものである


いずれにせよ
多様な表現を気軽にできる手段が
言語を発する側の手段として用いられている


このような手段の中で
発音や手話は一過性の表現であり保存がきかないのに対して
文字と点字は保存の効くものである


それぞれの特徴はともかく
人間は簡単な表現手段を好むようである


だからなのだろう
言語と関係がないのは味覚や臭覚である


人間には
味や臭いを
文字や発音のように表現する能力がないからだろう


人間にも
動物たちのように
臭いで個体識別をする能力があったのかもしれないが
仮にあったとしても
文字や発音の普及と共に
その必要性が低下し
臭いを出す能力も
臭いを識別する能力も劣化してきたと考えるのが
わかりやすい考え方である


効率的であり恣意的だからである


体臭は容易に変えることはできないように生まれてくる


だから
変えることが出来ない


変えることが出来ないから
広がりがない


表現の多様性が制限されているということである


体臭は生命活動に強く関連した表現であるのに対して
言語活動は生命活動と関連しているものの
生命活動から自由なところがある


生命活動と言語には恣意的関係性があるので
自殺を勧めるような言葉も存在できてしまう


人間の世界に極悪非道の鬼が現れたのは
言葉が発達してからなのではないかと私は思う


生命活動ではなく
言語活動が人間性を創造するようになってからではないかと
私は思う


好き嫌いはあるけれど
嫌いを徹底的に排除するには至らないのが
生命活動であると思う


なぜなら
他者への強い干渉は
言語世界がもたらしたものだと思うからである


好き嫌いは生命活動的で
その透徹をもたらすことが理性的活動であると思うからである


いくら良いことでも
ほどほどにしないといけないのは
人間も命だからなのだろう


地球もかわいそうである