理性三態:創造される主体 そして私
酵素が主体であるとき
基質は客体となる
逆に
基質が主体であるとき
酵素は客体となる
主体と客体は
実体世界に何の変化もないままに
入れ替わるのである
理性が
それを主体と決めれば
それは主体であり
それを主体でないと決めれば
それは主体ではなくなるのである
その決め事に従い
理性は
主体を中心に思考を巡らす
理性による主体の選択がなされているのである
こうした理性の選択の一端として
「私」という主体が存在している
主体は理性の創造物であり
客観的に存在しているのではないのであるから
そうとしかなれないのである
そんな状況のもとで
私の理性は
原則として
私を主体として選択している
「人の気持ちになって考えなさい」といわれても
いつの間にやら
私の理性は
私を主体として思考してしまうの
原則に戻るようにできているからである
見えている世界は
私が見ているものであり
人は客体であるように
気持ちも
私の気持ちは常にわかるけれど
人の気持ちは
原則的に客体でしかない
本来的に
私が主体となる様に
私の理性はできているのであり
それは
理性が選択する以前の問題なのである
それを
あえて
「人の気持ちになる」という選択に切り替えことが出来るところに
人間の霊長たるところがあるのだろう
霊長たるもの
私から
主体を剥ぎ取れなければならないらしい
すると
私は大切なものではなくなり
客体へと成り下がるのである
そうなればこそ
主体は
望むばれている客体として
滅私奉公にいそしんだり
国に命をささげる兵隊さんになることもできるようになるのである
そんな奉公人や兵隊さんも
主体を取り戻す時がある
理性で取り戻すのではない
視覚が作り出す世界の主体は私なのであり
そうした感性が
私に主体を押し戻し
原則を守らせようとするのである