ドラッガーは
「それが誰の課題なのか?」を問うことを勧めている
ゴルフの日に雨が降るのは
「私の行いが悪いためである」ということになれば
ゴルフの日に雨が降らないようにするには
「私の行いを正す」という課題が現れる
ということだろう
さようならば
と
私が行いを正して
ゴルフの日に雨が降らなくなれば
「私の行いを正す」ことは
真に私の課題であったと確認できるのだが
行いを正しても
ゴルフの日に雨が降るようならば
「私の行いを正す」ことは
私の課題とはいいがたいと振り返ることが出来るだろう
実際
私には気候を動かす能力がない
そんな無能力の私には
「ゴルフの日に雨が降らないようにする」という課題は
課題にもならない無茶なのである
そんなことを課題にしても仕方ない
というのがドラッガーの教えのひとつである
自分のできる課題に真摯に取り組み
課題にもならない課題は放っておくのが良いのである
アンドロメダ星雲や
太陽の存在をどうにかしようなどと思わずに
目の前のできることに注力することが大切であるに違いない
そこで
私は
アンドロメダや太陽を放っておき
自分のことに精を出す
そして
見るものを減らしてゆき
自分の周りにばかり身を見張り
客観性を失い
主観的になってゆくのである
私の能力が及ぶ範囲のことに注力し
それ以外のことへの関心を縮小していゆくと
頭の中で
巨大な私と
小さな周辺が形成されてゆくのである
私の能力は
基本的に
私が生き延びるために備わっている
他人の自由や平等のために備わっている能力に比べ
私が生き延びるために備わっている能力が大きので
巨大な私と
小さな周辺が出来上がってゆくのである
そこで
その傾向を是正するかのように
理性が
他者のための客観性を要求するのである
私は
他者にとって客観的存在であり
直接の課題ではないのである
その私が他者から守られるためには
他者の客観性が必要なのであり
時を超えてゆくために
他者の力を借りるためには
他者に客観性を持たせる必要があるのである
単細胞生物多細胞生物に進化する過程で
細胞も
このような客観性を習得したに違いない
システムは
課題と課題のつらなり
能力と能力の連なりの中で
時を超えてゆく能力を高めた結果の産物なのである