定義と現実:純粋体験という消えゆく現在
意識の中では
記憶として過去があり
予測として未来があり
感覚として現在がある
定義に従い現実から取得する感覚が
定義に従い記憶され
定義に従い処理され未来を予測する
このようなシステムにおいて
記憶する定義が遮断されると
現在の感覚しかない
純粋体験が残される
純粋体験は
定義に従い
現実と1対1で対応している
現実が動けば
純粋体験も動く
純粋体験は受動的な定義にのみ従って動いているのである
電源は入っているが
録画ボタンが押されていない
ただ画面が動くだけのビデオカメラのような存在として
感覚が働き
純粋体験がもたらされるということもできよう
したがって
「純粋体験の状態があった」という記憶があるということは
その記憶があるということで
純粋体験ではないということになる
純粋体験は
その時々にしか存在せず
跡形もなく消え去るからこそ
純粋体験なのであり
現在を認識する指標となるのである
記憶としての体験は
記憶であると分別される
したがって
過去の体験であり
純粋体験ではないと判断されなければならないのである
純粋体験としての体験は
現在の体験として分別されているから
現在という認識ができあがり
それとは異なる存在ということで
過去や未来も分別できるという仕組みになっている
こうした分別をするための定義が
意識の中に備わっているのだろう
こうした定義が壊れると
過去も現在も未来も混在一体として
永遠というカオスが意識の中に広がのかもしれない
こうしたカオスから逃れ
現在を生きるために
意識は
純粋体験を純粋体験として
現実からくみ取り続けている
予想しなくても
向こうから勝手にやってくる現在の現実を
純粋体験が待ち続け
すぐさま消し去っているおかげで
現在という認識が存在するのである