定義と現実:体内に埋め込まれた受動的な定義たち
春になると
フクジュソウやレンゲソウが咲き
ツクシが顔を出す
そして
梅が咲き
桜が咲き誇り
やがてヤマブキが咲き
アカシアが白い花を咲かせる
春ならば
いつでも桜が咲いているわけではないけれど
春といえば桜である
典型的な春の景色といえば
霞がかかった穏やかな日差しの中で
桜が咲き誇っているのである
こうした
典型的で
象徴的な春の景色は
春の一断面に過ぎない
春は
断面の総和として
私の脳裏に刻まれている
さて
こうした春を彩る桜やその余の春の花々は
なぜに春に咲くのだろう
どの様に春を知るのだろう?
桜は
休眠打破ののち
気温の積算しており
その積算気温が一定以上になると
開花すると言われている
外界の動きを
桜の体内に宿しながら
桜も過ごしているらしい
受動的である
生命は
季節に受動的に反応するようにできている
昼夜にも受動的である
時の流れに寄り移ろう外界に
受動的に反応してゆく様々な定義を
体内に宿しているのである
わたしの体内にも
こうした受動的な定義がたくさん設けられており
春を感じるのである
こうした受動的定義の総和として現実を取り込むのである
ツバメが飛び交い始めた
春も盛りを向かえたようである
知的活動の根幹が
こうした受動的定義により培われている