理性三態:感情が理性空間を闊歩する
赤信号で車を停める
車を運転する者の当然の義務である
確定申告をして税金を払う
国民の当然の義務である
私は
様々な義務に囲まれている
そうした義務を
時には放棄したくなる
それでも
だいたいの場合は
我慢をして
自分を曲げ
そうした義務を履行する
義務を放棄すればどうなり
義務を履行すればどうなるのかを
理性が予想をして
その予想された架空世界が
自分にとって好ましいのか好ましくないのかを
理性は考えながら
実践すべき行動を選択し
為すべき近未来の自分の行動を
架空世界に描いてみせる
この
好ましいのか
好ましくないのかを考える場面で
感情がここぞとばかりに参加する
むしろ
感情の一部が理性なのではないかと思われるほどに
架空正解に現れた未来の自分の姿に対して
感情が大いに賛否を議論に介入するのである
「損をしなくない
得をしたい」
この思いは
理性だろうか?
感情だろうか?
「損はいやだ」
「得はうれしい」
この思いは
理性だろうか?
感情だろうか?
理性的な判断と評価されることは
往々にして
社会の要請に従った行動をする場合にであり
個人の感情を抑えたことであるような気がする
すれば
理性の極論は
社会規範に従った判断を下すことということになるだろう
もしそうならば
私の思考は
理性的判断をするために
私の感情と闘うことにある
ということになる
考えることではなく
理性を抑圧することが
理性の働きということになるのである
確かに
社会規範に則っていれば
私の安泰が確保できる状況であるならば
理性が感情を飼い馴らすのは
比較的容易なことなのだろう
そのような安泰ではなく
たとえば親族が危篤である場合など
感情を飼い馴らすことが出来なくなったときに
私は社会規範を放棄して
信号を無視したり
脱税をしたりすることになるのだろう
こうした判断をすることも
理性の選択ではあるのだが
感情が我慢できるかできないかの判断する時点で
感情の抵抗の大小がこの判断の重要な決定的要素となっている
感情が理性的判断の中軸に大きな顔をして
鎮座してい居るのである
さらには
別の感情を高揚させ
ある感情を我慢させることはままあることである
こう言った場合においても
理性的判断といいながらも
感情が決めているような状況と考えられる
理性的判断を決定づけているのは
感情であり
理性は調整役と考えた方が良いくらいである
理性の描く架空世界の中を
感情が闊歩している
そうした闊歩があってこそ
形も色も音も臭いもない理性の架空世界に
未来の私を開いてゆく道が創られてゆくのだろう