生贄という文化
功利主義によれば
少数の生贄により
大多数の幸福が満たされれば
それは正義にかなうことになる
持ちつ持たれつの自然界にあって
人間は搾取する側にだけいるというのは
虫の良い話であり
人間も人間以外の自然に奉仕しなければ
自然の中で
持続可能性が維持できない
そのために
人間も
犠牲を払わなければならないという考えが
生贄文化の背景にある
その犠牲を誰が負うのか?
その答えを
功利主義は生産性の低い人に求めたりする
そのためだろうか
人は人を評価する
高く評価したり
低く評価したりする
この評価は
評価基準で変わったりするから
いろいろな評価があらわれて
意見が分かれることになる
で
総合的に勘案して
評価するという文脈が現れる
平たく言えば
好き嫌いで評価するという原点に立ち返る
総合的評価に反論することは至極難しい
基準がはっきりしないところで議論しなければならないからだ
ある基準で反論できても
すぐに別の基準で反撃される
だから嫌われたくない
嫌われると
功利主義の犠牲になりやすい
嫌われたくない心理は
この功利主義的犠牲の論理を裏付けている
嫌われないためには
恨まれることはしない方がいい
*
命は
犠牲を払いながらも
あるいは犠牲になることから逃れながら
生き延る
この宿命を
人間も負っている
生命は
使い捨ての存在が
使い捨てられる前に
再生産されることにより維持されている泡沫だ
しかし
ただの使い捨ての存在ではない
使い始めて
使い終わるまで
それなりの時間がある
この時間のなかに
さらなる命を
たくさんたくさん吹き込めるのが
人間だ
*
生贄は
調子に乗り
繁栄を謳歌し過ぎた反動として現れる苦境への畏怖が
背景にあるのかもしれない
欲深い業が
禍をもたらす
生贄の替わりに
科学技術が
禍を鎮める役割を演じるようになってきた
生贄の儀式が
幾多の悲劇をも演出したように
科学技術も
幾多の悲劇を演出してゆくのであろう