予定と実践:存在と認識と神様について
カーナビのスイッチを押すと
周辺のレストランが表示することが出来る
便利な時代になったものではあるが
このような便利な機能を知らなければ
そんな機能は存在しないことと何ら変わりがない
事実
このカーナビを使い始めて
もうじき一年になろうとしてる時に
私はこの機能を知った
だから
それまでカーナビに
周囲にあるレストランを教えてもらえるなんて考えもしなかった
レストランは
道すがら
看板を見て探すものであるという
古い常識の中に私は居たのである
さて
レストランの側とても
カーナビになぞに載せてもらいたくないという
頑固な店主や
カーナビに載せてもらえることを
知らない店主もいるのかもしれない
そんな訳で
カーナビに載っていないいないレストランは
カーナビの世界では
存在しないレストランである
レストランとして実在しても
カーナビ情報として実存しない状態ということだろう
「〇〇は存在しない」
この奇妙で非論理的かつ非網羅的な状態が
平然と生じているのである
考えてみれば
私も
すれ違う人の名前を全て知っているわけではない
皆それぞれに名前を持っているのだろうが
私はそれを知らない
それをいいことに
「あの人には名前は存在ない」と言い切ってしまうのが
「〇〇は存在しない」という言説である
こんな乱暴なことをして
全てを知っているような気になってしまう戒めとして
「不知の知」なる言葉も生まれてきたのだろう
要は
認識できていないことが
たくさん存在しているのである
それは
カーナビにしても
人智にしても同じことなのである
万能の神様であるのならば
全てを認識しているので
「〇〇は存在しない」というような不埒なことがない
きっとそうなのだろう
ところで
〇〇に神様を代入すると
「神様は存在しない」ということになり
これはこれで
先に言う不埒な認識ということになる
では神様はどいうものかと考えてゆくと
ひとつには
「知らない」を次々と「知る」に変えていった先にたどり着く究極
として神様を考えることもできるだろう
神様に近づき
様々なことをより正確に予測でき
予言者となってゆくという考え方である
こうした意味でいうと
AIには神様に近づく素養が
私などよりも数千倍も数万倍もあるのだろう
コンピューターが発展し
やがて
地球上の元素の全てに管理番号を振り付け
どの元素が地上のどこにどのような分子として存在しているのか
瞬時に判断できるようになるのかもしれない
そして
これから起こることを次々と予測してゆく
地球の全てが
コンピューターの中で再現されるのである
しかし
こんなことが出来る素晴らしいコンピューターでさえも
元素の中の素粒子の一つ一つに管理番号を振ることが出来ず
予想を間違ってしまうことが顕れる
そうなれば
神様としては失格の烙印を押される
それでも
神様の補正を受けながら
元素の挙動を修正し
元素レベルで事象を予測するコンピュータは
それなりに素晴らしい活躍をしてゆくことが出来る
同じように
わたしも
カーナビに補正されながら
車を運転している
そして
カーナビからレストランを探し当て
素晴らしい食事を摂ることが出来るのだろう
私は
カーナビに補正される立場なのである
私はカーナビの下である
なんだか悔しい
そんな考えに対峙するように
ふと考え思いたどり着いたことがある
「カーナビに載っていないレストランが
この週辺に在るに違いない」
「私はそのレストランを探し当て
とても素敵な空間で
とてもおいしい料理をいただくことになる」
「きっとそこには
神様も存在していらっしゃるに違いない」
「そんなレストランなどない」
と不埒に否定せず
不知の知のレストランを夢見てみるのも悪くなかろう