予定と実践:幸せを感じるということについて
ゴルフのティーショット
スウィングを始めると
途中で
「あ 止めよう」と思っても
スウィングは止まらずに
ボールを打ってしまう
意識と身体は
完全には一致してくれない
右手を動かそうと思えば
右手が動き
左手を動かそうと思えば
左手が動くといったように
大体において
意識と身体は一致している
だから
意識は身体を制御しているような気でいるが
いざという時に限って
身体は意識の思うように動かずに
失敗をしでかしてしまう
「右向け右」という言葉と
右を向く動作も
規律が成立している場合には
相同性を保持しているが
規律が崩壊してダラダラとするようになると
相同性が崩壊する
こうなると
言葉は実を失った空砲となる
それでも
「右向け右」の言葉そのものは存在し続ける
が
その存在意義が消えている
「それは戦争犯罪だ」
この言葉も同じである
言葉の存在は
その言葉から離れずに存在しているが
言葉の存在意義は
その言葉から離れて存在しているのである
意識も
意識自体に存在しているが
意識の存在意義は
意識以外のところにも存在しているらしい
スウィングを途中で止めるという意識は
スウィングを止められない限り
その存在意義はないのである
考えてばかりいて
やらないことが山の様に存在している
この山は宝の山なのかもしれない
しかし
宝は掘り出さなければ埋まったままである
眠くなったら眠り
お腹がすいたらごはんを食べる
こういう風に
意識を現実化しなければ
意識の存在価値は低下するのである
ぐっすり眠り
たっぷり食べると
意識は幸せを感じてくれる
逆に
思うようにならないと
意識は不幸を感じる
意識は
意識の存在価値を自ら感じとると
自ら幸せを感じるようにできているのだろう
自分で作った予定が実践されるという幸せ
他に幸せを感じる機会はあるのだろうか?