予定と実践:主体が環境の中にいるということ
暑い日の散歩道
水鳥の雛が
私の姿を見て
急に急いで水の中に潜ってしまった
いたいけな雛にとって
私は逃げるべき悪い奴らしい
鳥にしてみたら
私はレイシズムの対象であるらしい
しばらく行くと
今度は
カラスが木陰で口を広げている
へばっているのか
逃げはしないが
「暑いのかい?」と声を掛けても
カラスは明後日の方を向いている
カラスが見つめる先の明後日はどこにもないが
いずれはやってくる
これは私にとって
1+1が2であるのと同じ真実である
何時だって
誰がなんと否定しようとも
一昨日の明後日は今日なのである
そして
私の一昨日と明後日も
カラスのそれらと一緒に
今日ここで交差したのである
しかしながら
一昨日
このカラスはどこで今日を見ていたのか
私は知らない
私は
このカラスと出会う予定もなく
さきほどまで
このカラスとの出会いを未知の中に置いていた
それにもかかわらず
どのカラスも同じものとして扱うことで
私は
このカラスを知っていたかのように見つめていた
この疑似知覚により
わたしはこのカラスを知っていたのである
このカラスにしてみれば
私は明後日の方を向いていたのだろう
つまり
私とカラスは
互いに明後日の方を向いて今を分け合っていた
環境の中にいるということは
こういうことなのである
抽象的なカラスではないこのカラスと
抽象的な人間ではないこの私が
見ず知らずのまま
何の前触れもなく出会うのが
環境である
抽象の世界は
物質が動き回る環境の中の
ほんの些細な一つの部分なのである
そんな小さな環境である言論に
暑がったり寒がったりしながら
口を開けゼイゼイと息を切らさなければ
環境への適応が
私には出来ていないことになるらしい
カラスからすれば
たくさんの厳しい環境を自分たちで作り
自分たちで四苦八苦している様は
明後日を向いて生きているように映るのかもしれません
誇りは
困難なことを乗り越えてこそ味わえる至福なのですから
仕方がない