予定と実践:神経中心主義と内臓中心主義
神経でつながっているから
火にかけた鍋に触れると指先が熱いのも
転んでぶつけたところが痛いのも
実感できる
神経でつながっていない他人の指が
火にかけた鍋に触れても熱いと感じないし
誰かが転んで大泣きしていても
どこが痛いのかわからない
神経でつながっているのか
つながっていないのかで
このような大きな違いが生まれる
だから
神経でつながり
痛かったり
心地よかったりする処のものは
とても大事であると感じ
実際にとても大切に扱うけれど
神経でつながっていない処のものは
神経でつながっている処のものよりも
どうしても疎かになってしまう
このような違いをもたらす神経のつながりが
身体の一体感を醸し出してくれている
指先が鍋に触れて熱いと感じても
腕が動かず
鍋から素早く手を引っ込むことが出来なければ
火傷はより深刻なものになるだろう
神経の連なりの中で
何をすべきであるのかが決められ
実践されているようである
神経でつながっている処のものは
全て仲間同士であり
神経でつながっていないものは
この意味での仲間ではない
このような仲間としての機能の象徴として意識がある
状況に応じて何をすべきかを考え
それを実践する意識である
この意識の能力を高め
生き残り繁栄しているのが人類である
他の動物に比べて
この意識の能力にたけていることを
人類は自覚して
この能力が優れているからこそ
人間は万物の霊長として君臨していると
自負している
だからなのだろう
意識が身体の中心にあり
その意識の周辺を手足が蠢いているように思うところがある
ところが
実際には
内臓が身体の中心にあり
その内臓の意向に沿って
神経は動いているのである
内臓がくたびれてしまえば
意識も萎えてしまうのである
逆に内臓が元気ならば
意識も活発になれるのである
内臓の下僕として
神経は働いているのである
このことを忘れてしまい
意識中心主義に陥ると
内臓に足元をすくわれることを
人間は忘れてはならない