存在と単位:存在の単位のスペクトラム
山頂は山に属し
その中心として存在している
谷川は谷に属し
その中心として存在している
山頂と谷川の中間は
どちらにも属しながら
中心との近さに従い
その山っぽさと
谷っぽさにスペクトラムが成立している
山頂と谷川の中間は
山と見れば山であるし
谷と見れば谷なのである
現実は
様々な存在の単位の混成物なのである
わたしという意識は
感覚を受け取る範囲で成立し
また
筋肉を随意に動かせる範囲として
躍動する単位として考えることが出来る
ここで問題になるのが
わたしの意識の範囲について
遠位感覚をどう考えるかである
見えている景色は
わたしの意識に入るのか?入らないのか?
薫ってくる臭いは
わたしの意識に入るのか?入らないのか?
同じように
随意に動かせる筋肉に関して言えば
わたしの投げた石は
わたしの意識に入るのか?入らないのか?
という問題が生じてくる
わたしが世話をしている鉢植えの花は
わたしの意識に入るのか?入らないのか?
わたしに懐いている私のネコは
わたしの意識に入るのか?入らないのか?
意識が物質ではない情報として
言葉の物質的側面ではなく
意味としての側面のようなものと考えれば
わたしのネコも花も私の投げた石も
嗅いでいる臭いもめている景色も
わたしの意識に入るものである
しかし
わたしの意識を
言葉の物質的側面である文字や音のような存在と考えると
わたしの意識は
わたしのネコや花とは異なる物質と考えなければならないだろう
物質的側面も
情報的側面も
意識であると考えると
わたしの意識にも
山と谷のようなスペクトラムがあらわれてくる
物質的なものとして眺めれば
それは物質的なものとしての比重が高くなり
情報的なものとして眺めれば
それは情報的なものとしての比重が高まろう
これとは別のスペクトラムとして
同じ景色の中でも
手に届かない景色は
わたしの意識としては薄いもので
手に届き
実際に手を伸ばす
わたしの花や私のネコの姿は
わたしの意識としては濃いものとなる
現実世界に
わたしの意識の濃淡を見ることが出来るのである
現実世界には
意識が影響を及ぼす範囲
意識が影響を受ける範囲について
それぞれスペクトラムが存在する
権力者の意識が影響を及ぼす範囲と
わたしの意識が影響を及ぼす範囲は
異なるし
インターネットのない時代と
インターネットのある時代とでは
意識が影響を受ける現実世界の範囲は
異なったものである
さて
コウモリは
超音波を聞いている
モンシロチョウは
人間の見えない紫外線をも見ている
わたしに
超音波を聞く耳が付けば
わたしに
紫外線を見る目が付けば
わたしの意識は
今のわたしの意識と異なるものになるだろう
タコのように
わたしに8っ本の手足があれば
わたしの意識は
今の意識とは異なったものになるだろう
わたしの意識は
物質的な反応能力によっても
大きく異なるものになるのである
現実は一つの塊なのかもしれないが
わたしの意識は
それをいくつもの単位として
分離しながら取り扱っている
現実は
様々な単位の混和であり
わたしの意識や
わたしのネコの意識が混和した状態でもある
わたしが猫の餌を見ている傍で
わたしのネコが同じ餌を眺めている
その時
わたしの意識と
わたしのネコの意識は
きっと
猫の餌のあたりで混和しているのである