ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

トイレは理性から本能への敬意の象徴である


急に下痢を催すと
つらい
通勤電車内だとなおさらだ


「漏らすわけにはいかない」
理性が叫び
これに呼応するように
「次の駅で降りようか」という言葉が湧き上がる
さらには
「そんなことをしたら時間に遅れる」等々、、、
様々な声がコダマする


本能は 
鎮座してその行方を見守っている
本能は
「もらしてもいい」などとも
「もらすな」ともいわない
ただ鎮座してそこにある


この鎮座している本能の周りで
理性が対症療法を様々議論するのだ


このように右往左往する理性のために
トイレが創られた
そこにたどり着いた理性たちは
本能に服従し
その場所で
安堵の息を静かに吐くのだ


この吐息は
理性による
本能がもたらす厳かな儀式のようだ


ーーーーーー
メモ


本能と理性を分離しておかないと
純粋な理性を考察できない
これは
重力と磁力を分離してかんさつしないと
磁力の世界を観察できないのと同じだ


小さな力を観察するためには
大きな力を除去しなければならない


食欲という本能がある
この本能を除去して理性を観察しようとする時
大きく次の二つの方法がある
食欲を満たしてないものとして扱う場合と
食欲を我慢してないものとして扱う場合だ


いづれにしても
そのようにしてできた理性の理論は
食欲から遊離した味気ないものになる
ちょっとでもお腹がすいたら
「そんなこといっても、、、」となる宿命だ


それにしても
本能を削いでそぎ落としてゆくと
どんな理論が残るのだろう


そぎ落とせば削ぎ落とすほどに
味気なく無味乾燥な議論になるだろう
やがて
道徳も神様もなくなって
何も足さず
何も引かない
あるがままに全てを受け入れる世界が広がろう
そうなると
言葉にどんな意味が残るだろうか?


何かを足したり引いたりするために
言葉を使い活動をする


本能を除去し尽くすと
身体活動も不要になるのだろう


本能のない
言葉も身体も不要な静かな世界の水面に
ぽつりと
本能の粒が落ちてくる
すると
理性も波紋のように広がるのだ


理性は
本能が落ちてくるのを待っているのだ

×

非ログインユーザーとして返信する