へそ曲がりの哲学
わたしは
へそ曲がりであるらしい
子供のころ
よくそう言われたので
いまでも
自分はへそ曲がりだと思っている
でも
子供のころのへそ曲がりと
今のへそ曲がりでは
ずいぶんと違いがあると感じている
へその曲がり方が違っているのだ
*
社会生活の中では
へそを
みんなで同じように曲げないと
社会の調子が悪くなる
たとえば
軍隊の行進が一糸乱れず行われるのは
みんなのへそが
生まれつき同じようになっているからではなく
訓練して
みんなで同じようにへそを動かせるようになっているから
あんなに見事な行進ができる
*
子供のころ
どうすればみんなと同じようになれるのか
それがよくわからなかった
だから
みんなとは
へその位置がずれていると感じていた
不器用なへそ曲がりだったのだ
いまは
みんなと同じように
へそを動かそうと思えば
動かせる器用さが身についた
社会人として
鍛錬を重ねた成果だ
それでも
みなと同じように
へそを動かしたくなくて
へそを曲げてしまうことがある
では
「なぜ、あえて、へそを曲げるのか?」
それなりの答えとなるべき理屈は
自分なりに持っている
この理屈の総体が
「へそ曲がりの哲学」ということになるのだろう