ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

一を聞いて十を知る経験知としての「九」


「お茶をもってきてください」
「はい、オチャとはなんですか?」
「え、お茶だよとお茶、緑茶がいいな」
「リョクチャ?なんですかそれ」


このように
言葉から意味をくみ取らない人がいると
会話がうまく進まない


一を聞いて
一も理解できない赤ちゃんが
様々な経験を積み
一を聞いて
十を知る立派な大人へ成長してゆく


言葉に接しながら
その言葉に「まつわる意味」を体得してゆく


この「まつわる意味」が
十から一を引いた「九」の部分と言うこともできよう


社会の風習も
社会に接しながら
その行動の意味を体得してゆく


経験が知識を増やし
次から次へと
一を聞いて十を知るようになってくる


このようにして
次々と個人的に蓄積してゆく
経験値としての「九」が実に曲者だったりする


一休さんの
「このはしをわたってはいけません」
の逸話のように
言葉の意味をすり替えてみたりできるのは
十のうち九も
個人の裁量に任せているからだ


実生活においては
「ああしてもらおうと思ったのに
 こうされてしまった」
というようなこともしばしば起こる


九の部分は
管理しきれていないところがある


この個人の体得に任されている九の部分を
社会が一生懸命に管理をしようとしているけれど
完璧にできない
個人の能力や歴史に相違があり
強制力が効かないところがどうしても出てきてしまう


人間とちがい
コンピュータに対しては
この「九」を充分管理できる


コンピュータに制御された機械は
この「九」の部分もしっかり管理できるから
おかしな間違いはない


そのかわり
確信的な間違いも
正々堂々
繰り返される


AIには
この「九」の領域でも
軌道修正する柔軟さも
備えられてゆくのだろうか?
だとすると
はたして
どのような方向へ
AIは
自らを軌道修正してゆくだろか?


囲碁や将棋の世界では
AIが勝つ方向に
「九」の領域が改良されてゆく


AIが勝利を目指す相手は
人間の中でも最高の能力をもって人間たちだ


「九」の領域をうまく扱えない者を
知的障がい者と呼ぶことがある


AIが学習を繰り返せば繰り返すほどに
AIは人間に近づき
やがて追い越してゆくのだと聞く
人間全体が
欠陥だらけの障がい者となるのだろう


ダメなりに生きて行く
生きて行ける


このことを可能にする優しさも
AIや優れた人間たちの「九」の領域に
ぜひ付け加えてもらいたいものである

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