うぬぼれた理性に付き合うということ
腹痛にさいなまれ
6日ほど入院した
寝返りをするたびに湧き上がる
下痢をした時のような痛みは消えたけれど
奇妙なことに
排尿や排便をしたくなると
しくしくとお腹が痛くなる
「おしっこをしたい」とか
「うんちをしたい」という感覚は
逆に起こらない
だから
お腹がしくしくしてきたら
トイレに行く
「なぜ『出る出る』と思わずに
『しくしく』するのだろう?」と考えるのだが
そもそも
排尿や排便をしたくなることを
私が意識できていたことの方がよっぽど不思議なことで
「『出る出る』と思うシステムに
どのような不具合が起きているのだろう?」と
考えるのが正解なのだろう
こういう疑問文になってしまうと
そのシステムの正常な状態と
今の私の状態を比較しなければならなくなり
いずれの状態について
私の意識が懸命に思考したところで
状態を観察できない限り
先には進めない
そこで
懸命な理性は
「私には判断不能であり
専門家に答えをゆだねなければならない」と
私の思考の限界を自白することになる
しかしどこか物足りない
それは
うぬぼれた理性が
「知は全能である」と考えているからなのだろう
このうぬぼれが
新たな知見を増殖させてゆく原動力となり
人類の知がますます集積してゆくのだから
うぬぼれた理性に付き合うことも
悪いことではない
ただ
うぬぼれに付き合うことには
粘りと根性が要求される
この粘りと根性が困難を乗り越えてこそ
アカデミズムの貴さが培われているのだろう