言葉と意識:不同の同を生きる
ある日
イタチがタヌキになった
そのタヌキは
しばらくタヌキとして生きていたのだが
ある日
再びイタチに戻った
こんなことをこのイタチタヌキは繰り返していた
この繰り返しには周期があるようで
春に
イタチはタヌキとなり
秋に
タヌキはイタチになるのであった
だから
夏にはイタチはいないのであったが
冬にはまたイタチが現れるのであった
イタチはタヌキではないけれど
夏の間はタヌキとして生きているのである
不同の同を生きているのである
モンシロチョウは
冬に蛹となり越冬する
この蛹からモンシロチョウが羽化して
そのモンシロチョウが卵を産み
芋虫がキャベツの葉を食べ
再び蛹となる
卵も芋虫も蛹も蝶も
同じモンシロチョウとして循環している
イタチもタヌキも
同じイタチタヌキとして循環していても良いではないか
と
言葉の世界だけで考えれば考えられなくもないけれど
イタチとタヌキは異なるものである
それは言葉の問題ではなく
言葉の外の問題である
不同の同を生きているか否かを決めているのは
それを決める能力主体に依っているのである
イタチタヌキや言葉とその対象のように
意識が不同の同を創造することもあれば
モンシロチョウのように
意識以外のものが不同の同を形成している場合もあるのである