ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:システムは思うゆえに存在する


たとえば
ロシアという国家システムにおいて
その内部では
ロシアに優しい刺激と
ロシアに優しい反応が連鎖し
ロシアの自己肯定感を醸成しており
この連鎖の循環が増えれば増えるほど
このシステムを
より強大なものへと増強している


たとえば
ウクライナという国家システムにおいて
その内部では
ウクライナに優しい刺激と
ウクライナに優しい反応が連鎖し
ウクライナの自己肯定感を醸成しており
この連鎖の循環が増えれば増えるほど
このシステムを
より強大なものへと増強している


しかし
このシステム外の外部刺激は
システムに優しいとは限らない
しかも
他のシステムにも大きく開かれている


外部刺激
たとえば
宇宙や太陽は
相も変わらずに存在している


地上も海も
このようなシステムに
能動的に反応することはなく
どこかのシステムに
所属しているということがない


このような土地や海に対して
それぞれのシステムは
それぞれに反応し
それぞれの解釈を付与してゆく


そして
土地や海という外部を
それぞれのシステムに取り組もうと努力を重ねる


人間の個体という二つのシステムの間に
どちらのシステムからも手が届く距離に
一つのリンゴがあり
どちらのシステムにおいても
空腹である場合
この一つのリンゴが
どちらのシステムにも魅力的な外部刺激として登場する


二つのシステムは
この外部刺激を
分け合うこともできるし
独占しようと奪い合うこともできる


これは
リンゴの問題ではなく
リンゴに対する解釈の問題となる


リンゴに意思があれば
その意志に反応して
それぞれのシステムが動くということも
良いのであろうが
リンゴには意志がない


仮にあったとしても
無視される


ここにおいて
二つのシステムが
相互に反応しなければならなくなる


親和か?
敵対か?


机の上にリンゴを置いてみる
すると
その場所はリンゴしかないのだが
その机の上には
かつて
蜜ろうが置いてあったのかもしれない


燃えカスになった蜜ろうであったかもしれない


そしてこれらの机の上に存在していた物たちは
この机の所有者により
おそらく
「私のものだ」と解釈されていた



あの土地やあの海は
私のものではなかったのかもしれないという懐疑を抱きながらも
あの土地やあの海は
私のものであると
それを見ているシステムたちは
解釈することが出来る
そして
それを実践するために
様々な努力を払うことになる


こうした解釈や実践故に
システムは存在する



リンゴの味を覚えるということは
それを欲することになる


欲することを実践する力の外に
欲することを抑止する力が存在するのは
なぜであろうか?


国は
どこまで人民を意のままに操ってよいのだろうか?
資本家は
どこまで金を意のままに操ってよいのだろうか?


欲することを出来る力を
どこまで抑止しなければならぬのだろうか?


リンゴが地球の引力に従い落ちてゆく
そして
その落ちたリンゴに
その味を知るたくさんの生き物が引き寄せられる


引き寄せられる故に
システムが存続を維持し続ける

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