ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:生命の残忍さに流浪する意識たち


意思のない動物でも
環境に余裕があれば増えてゆくし
余裕がなくなれば減ってゆく


生命現象は
意思とは無縁に起こるものらしい


だからなのだろう
意思に沿わない生命現象に
意識がいら立ったりする


生命現象は
意識の思うに任せないところがあるから
意識も大変だ


そのくせ
意識は横柄で
手や足が思うように動くことを
当たり前のように思っている


その延長なのだろう
意識は
言葉が通じることが当たり前のように思っている


そして
通じないとなるとイライラする


アリに話しかけても
アリは何も反応してくれない


それは当たり前のことなのに
アリと人間は異なる存在であるという理由で
人間に話しかければ
人間は反応するのが当たり前だ


同じように
私の手足は
私の意識に忠実に反応するのが当たり前で
他人の手足は
私の意識に忠実に反応しないのが当たり前だ


よくよく考えてみると
忠実に反応することには
忠実に反応してきた歴史があり
忠実に反応しないことには
忠実に反応しない歴史がある


前者は
特殊性の高い
忠実な関係の歴史であり
後者は
特殊性の低い
自由な関係の歴史である


特殊性がなくなれば
自由な関係になる


神様への信心がなくなれば
その神様との特殊な関係は消滅し
その神様から自由になるし
その地域への信頼を失えば
その地域から自由になる


言葉を忘れれば
言葉から自由になる


身体がうまく動かなくなれば
その身体から自由になれる


しかし
意識は
その身体から自由になれず
その身体を恋焦がれ続けてゆくのだろう


特殊な関係は
両側から忠実に反応することで成立している


だから
片側の特殊性が失われると
もう片側の特殊性が機能不全に陥ることになる


両側からの特殊性がかみ合って
恋や愛が生まれ
忠実な関係の歴史が営まれている


自然は自由である


それでいて
同じような現象が繰り返してくれている


過ごしやすい日が続くと
感謝したくなる


嵐の日が続くと
恨みたくなる


意識は
自由な関係の相手にも
忠実な関係を求めたがるところがある


片思いでも良い


生命はこうした依存を繰り返し生きて来た


体外環境に依存し
体内環境に依存しながら
良きものとの関係を築きながら
悪しきものとの関係を断ち切りながら
アリも
人間も生きて来た


依存する先を増やすことで
うまくいかなくても
うまくいくところがあれば
何とかなってきたのである


生命はそんな雑なものである


何が良くて増えたのか
わからないまま
何が悪くて減ったのか
わからないまま
個体数を増やし
あるいは減らし
生き延びて来たのである


意識は強欲に
全てをうまくいかせようとするのだけれど
生命はそれほど強欲ではないのだろう


「失敗してもいいから
 強欲にやってみなさいね
 うまくいったら
 お得だからね」


意識は
生命にこんな様に
言いつけられているのだろうか?


だから
思うに任せなくても
何とかしようと踏ん張って
踏ん張って
他の道を見いだず
悩んでしまったりするのだろうか


生命は残酷なものであろう


意識もまたその被害者である

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