ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:知覚と時空についての論考


冬場の空気の乾燥のせいなのか
皮膚が痒くなる


痒くなるから掻くと
ますます痒くなり
血が滲むまで搔きむしってしまうこともある


痒くても我慢しなければならないと
頭でわかっていても
掻くと気持ちが良いのだから厄介である


さて
人の痒いのはわからないけれど
自分の痒いのはよくわかる


しかも
何処が痒いかもよくわかる


痒いということには
もれなく場所というものがついて回ってくるらしい


さっきまではあそこが痒かったけれど
今はここが痒いということもよくあることで
時間も痒いについて回っているようである


痒くない場所や時間もたくさんあるから
広大な時空の一か所で痒いが発生しているようである


しかも内臓が痒いということがない


内臓は掻けないから
内臓が痒くならないのはありがたいことなのだけれど
掻くことが出来る皮膚が痒いから
思考にとっては
これが一大事となる


「掻くべきか?
 掻かぬべきか?」と悩まされるのである


広大な時空の本の片隅の些細な出来事に
思考の全ての領域を使い
懸命に
「ああでもない
 こうでもない」とつぶやいている思考というものは
どこか滑稽なところがある


かくして
大したこともないことに
思索を巡りつづけることは
思考世界ではよくあることで
それを楽しむのは
娯楽として好ましいことであるけれど
悩み苦しむということになると
早々に切り上げるのが得策ということになるのであろう


さておき
痒いと知覚していることと
痒かったと覚えていることとは
どこがどう違うのだろう?


知覚と記憶の違いの起源の問題である


「今」がついて回るのが知覚で
「今」が離れてしまったのが記憶ということでよいのだろうか?


であるとすれば
このような機能を持つ「今」をつけたり外しているのは
私であり
知覚と記憶を区別しているのも私ということになる


知覚も記憶も
人様にはわからない私専属の出来事なので
これらを区別しているのも私というのは
至極当然のことなのだろう


しかし
この区別している私を
私には意識できないでいるから不思議である


心臓が動いているのと同じで
そういう仕掛けがあると言えばそれまでではあるけれど
私の意識が
私の知らないところにより動かされているというのは
なんともけしからないことである


けしからないことだけれど
生きていることも
意識と変わらず同じように
わたしの預かり知らないところで動いているのだから
至極当然なこととして受け止めなければならぬのだろう

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