ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

正しいという言う偏見


正しいことは
どこまでも正しいのか?


少しわかりにくい疑問文だ


過ぎたるは及ばざるがごとし
これは
正しさにも該当するのか?
正しすぎるという事はあるか?


そんなことを
「モラルハラスメント」という言葉を聞くと思いだす


正しいものは
どこまでも過激になっても正しいのだろう


正しいものは正しいからだ


ただ適切かどうかは
別問題ということになるのだろう


いつも100点をとることができない


この現実が正しければ
正しさについても
100点を取ることは現実的でなくなる
これは
理屈の正しさと
現実の正しさに齟齬があるという事だ
要は
理論上の正しさは
現実から見ればとんでもない偏見ということだ


厳格な正しさの押し付けが
現実において
偏見の押し付けになりうる論拠となっている


そこで
適切だとか
善だとか
いろいろな観念が現れて
現実を
厳格な正しさの押し付けから
守るように工夫がされている


言葉が沢山あるという事は
便利なことです
正しくなくても
適切で居られるのです


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メモ


色々な正しさがあって
現実の中で混ざり合って
灰色になっていたりする


おとなの事情


極めつけの右と
極めつけの左が
裏で手を結ぶように
極めつけの正義と
極めつけの悪が
裏で手を取りあうのだろう


評価を測る物差しが
沢山あるから


特定の物差しで測った対極が
別の物差しで測ると
同じ場所にあったりするから
物差しがあればあるほど
灰色の世界を知覚できるようになる


ものを覚え
沢山の経験をして
物差しの数を増やしながら
子供が大人の階段を登ってゆく


この階段を上るにつて
純粋な青色赤色黄色白色黒色
色々な色が
別の色に入り込まれてしまうように
なってきた


それでもたまに
ものを忘れて
純粋な色をふと感じることがある
その
ふと感じる魅力的な偏見が
純粋な愛すべき偏見なのだろう


残念なことに
追いかけても
すぐにも消えてゆく偏見だ

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