ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

記憶と実践:マニュアルによる規律維持


原子爆弾の製造マニュアルは
紙もしくはデジタル化された情報なので
実際に爆発することはない


爆発しないから無害かというと
そうでもない


実際に製造しようとする者の手に渡ると
原子爆弾として生まれ変わるからである


マニュアルは
各種材料から爆弾へと
規則正しく変換させる能力を有している


この規則正しさが
記憶と実践を結び付けているのである


教育現場にも
指導要領というマニュアルがある


危険人物を育てるマニュアルは危険であるけれど
立派な人物を育てるマニュアルは正義である


園芸植物の育て方やら
料理のレシピ


様々なマニュアルが
それぞれの規律の源として存在している


規律正しき実践がなされ
それぞれの秩序が維持されている


生命が自らのマニュアルを改善してきたように
それぞれのマニュアルが
その実践の中から改善されてゆく


私の記憶も
私の規則性やら規律やらを維持するために
様々に機能していることだろう


いつか私は
私から自由になれるのだろうか?


自由が遠くの空の上を浮かんでは消えてゆく

記憶と実践:記憶は永続的で実践は断片的である


記憶は永続的で
実践は断片的である


人生は実践であり
断片的であり
終わりがある


しかし
人間の記憶は
人から人へと伝わり
永続してゆく


成功した過去は
記憶としてとどまるが
実践の様な生々しさがない


この新鮮な生々しさを求めて
また
記憶を実践に変えようと努力を重ねる


永続的な記憶が
断片的な実践を存続させている

感情と思考:実践の記憶が論理を開く


自分の痛いのはよくわかるのに
人の痛いはわからない


ただ
人の痛いのは
状況と自分の経験から想像するだけである


この想像は
思考の一種だろう


私は
私が痛みAを感じている時の状況Bを記憶している


彼が未知の痛みCを感じている時の状況Dは
私の記憶の中の状況Bとほぼ一致している
よって
彼の感じている未知の痛みCは
私が記憶している痛みAに違いない


同じような思考により
失恋の痛みを想像したり
寝ながらうなされている姿から
悪夢を見ているに違いないと想像したりする


猫の足を踏むを
猫はギャという声を立て逃げてゆく
その姿を見て
猫も痛いだろうと想像するのも
こうした思考によるものである


ところが
自分は猫でないので
どんな痛みかはわからない


わからないながら
自分が足を踏まれた時の痛みを
猫も感じていると想像している


こうした痛みは「痛み」なのである


「痛み」という言葉には実践的な痛みはなく
記号化された痛みである


猫の痛みだけではない
人様の痛みもまた「痛み」である


だから論理の対象となるのだろう


記号化された記憶なので永続性がある
だから論理の対象となるのである


記憶は永続的で
実践は断続的である


論理は永続的な存在であるので
実践的痛みとは相いれないところがある


記憶となった痛みは
論理との相性がよい


私の痛みの記憶も
他人の痛みも
猫の痛みも
「痛み」として論理的に処理され
想像が成立しているということである


記憶としての痛みがなければ
他人の痛みは
想像すらできないだろう


実践の記憶が
論理を可能にしているということである


春の日の縁側で
日向ぼっこをしている猫が目を細めている


それを眺め
その横に寝そべり
一緒に日向ぼっこをしたくなるのにも
一連の論理が思考されているに違いない


感情と思考は
仲睦まじい様子で意識の中を徘徊している