ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

思考と実体:「好き」「嫌い」という神様からの贈り物


「好き」があると
その対象を思い通りにしたくなる欲求が沸き上がる


そんな思いと裏腹に
その対象が思い通りにならないと憎くなる


かわいさ余って憎さ百倍という訳だ


こうして
憎くなっても
元来がとても好きなのだから
憎くさを差し引いても好きでいる
それで
「世の中思い通りにならない」ということになる



「好き」があれば「嫌い」がある


「嫌い」ということがあると
その対象を
やっぱり思い通りにしたくなる


嫌いな人とすれ違う時
「気づかないでくれ」と願う気持ちがこれである


好きな人とすれ違う時
「気づいてほしい」と願い
こちらから声さえかけようと思う気持ちとは正反対である


嫌いな人に
すれ違いざま声をかけられ
長々と話をする羽目に会うと
やはり
「世の中思い通りにはならない」ということになる


いっそのこと
「好き」とか「嫌い」とか思わなければいいのであるが
美味しいものは「好き」であり
まずいものは「嫌い」であるのだから
食事のたびに
「好き」や「嫌い」が頭をよぎる


「好き」や「嫌い」をなくするには
食事をやめなければならない


そうなると
お腹がすいて苦しくなるので
こんな生活は「嫌い」で
美味しいものをたっぷり食べる生活が「好き」
ということになり
やっぱり「好き」「嫌い」が現れる


かように生活に密着している「好き」「嫌い」が
なぜ現れるのか?


この「好き」「嫌い」の出現という現象により
人間行動が大きく変容するため
どうすれば好まれ?
こうすれば嫌われるのか?
この問題に思考が没頭することになる


没頭して
思考は
「好き」「嫌い」を支配しようとするのだけれど
これらを支配しきれないから
「世の中思い通りにはならない」と
また
嘆くことになる


こう考えてくると
「世の中思うようにならない」と嘆いているのは
きっと
「好き」「嫌い」に振り回されているからに相違ない
と思うようになる


猫を観察していても
猫は「好き」「嫌い」がはっきりしている


動物は
「好き」「嫌い」があり
これに振り回されて
生き延びて来たのだろう


すれば
「好き」「嫌い」は
進化の賜物ということになる


『「思い通りにならない」と嘆きながらも
 困難を乗り切れ』という
神さまからのありがたい贈り物が
「好き」「嫌い」という感情なのでしょう


「好き」はどこから来るのか?
「好き」は何ものであるのか?
「好き」はどこへ行くのか?


思考は泡沫的に
現れては消えてゆく刹那の中で
繰り返され試され
引き継がれ あるいは 消えてゆく


淘汰選択の荒波の中で
「好き」と「嫌い」が揺れてゆく

思考と実体:消えてゆく「しあわせ」


次から次へと
消えてゆく「しあわせ」を追いながら
老いて来た


老いても
なお
「しあわせ」になりたいと
祈りをささげる


消えてゆく「しあわせ」とともに
人生はあるものらしい


あったのか
なかったのか
よくわからなくなってゆく「しあわせ」


きっと
人生も
あったのか
なかったのか
よくわからくなってゆくのだろう


人生も
ひと時の高揚なのだろう


消えてゆく定めの中で
浮かれている夢の中


「しあわせ」は
そして
人生は
きっとそんな風なのだろう


その風を
思考が眺めている


そして
その風に向けて
精一杯帆を上げて
その風を受け止める


やがて
風が消えるとき
帆も消えてゆくのだろう


はたして
風を起こしていたのは
誰なのだろう

思考と実体:言葉の両側に在る世界


思考の世界の中の大空に
「善」という字を描いてみる


その「善」に
「善」についての語らいや
「善」とされる経験を紐づけてゆくと
大空に浮いていた「善」が
次第次第に落ちてきて
心の中に納まった


心の中に納まるや
「善」についての語らいや
「善」とされる経験が心を震わせながら
いよいよ本物の「善」として
心と経験を紡ぎ始めた


こうして言葉が
心と経験を結び付け
思考と実体をつないでいる


春の希望や
夏の情熱
秋の哀しさや
冬の厳しさも
こうして結びついているのだろう


「しあわせ」という言葉も
心の中の何かと
世間の中の何かを
きっと結び付けてくれているのだろう


早咲きの桜が咲いた


それを見てうれしいと思う心が
とてもありがたい