ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

組織と個人:在来種と外来種と大筋賛成各論反対


いま日本のタンポポは
大概
セイヨウタンポポという外来種で
日本の在来種の二ホンタンポポは
あまり見かけなくなっているという


セイヨウタンポポの方が
繁殖力が強く
二ホンタンポポに生えていた場所に
どんどん進出して
二ホンタンポポの生息域を
セイヨウタンポポの生息域に変えていっている
、、、ということらしい


「善」のイデアというものがあるとすると
これは
親の教育や
宗教や道徳、法律などといった外に起源をもつ
外来種である


逆に
「好き」とか「嫌い」といったイデアは
生まれながらに備わっている
在来種ということになる


大地の上で
二ホンタンポポと
セイヨウタンポポが
それぞれの生息域を誇示し合うように
意識の中で
「善」「悪」による価値判断と
「好き」「嫌い」による価値判断が
それぞれ主張し合っているようである


しかし
「好き」「嫌い」というものには
理屈がない


だから
「好き」「嫌い」だけでは
議論に厚みがなく
議論を重ねることが出来ない


それなものですから
議論を重ねれば重ねるほどに
「善」「悪」の価値判断を重宝するようになる


そうした議論の上で
結論らしきものが出来るのであるが
いざそれを実践する段になると
再び
在来種である「好き」「嫌い」が現れてきて
「いや、そこはちょっと待ってくれ」
ということになる


意識の中では
理屈は
外来種が好きなのだが
実践は
在来種が好きのようである


健康のためになる食事があれこれと議論されるが
実際に食べる食事は
好みの美味しいものが長続きする


健康に良いものは
一時の流行で終わり
すぐに飽きてしまうことが多い


所詮外来種ということなのだろう

組織と個人:「真実は酒の中に在る」byプラトン


ナリヌワイ氏が亡くなった


組織を裏切るものの末路は哀しいものになる

相場が決まっている、、、らしい


この哀しみを肥やしに
組織が太くなるというのが定石ということらしい



アフリカ大陸を
緑の草を求めてヌーの大群が大移動をする


群れからはぐれて孤立したヌーは
ライオンなどの肉食動物の格好の標的になるという


仲間から助けてもらえないからである



仲間を持つということには
大きく二つのメリットがある


他の集団からの保護を受けることと
集団内で排除されないことである



集団として生きていくように生まれた生き物が
たくさんいる


アリや
イワシや
人間である


他にもたくさんいる


集団として生きてゆくようにできているから
集団から外れると息絶える


そのように生まれてきたのだから
それに抗うことは
苦労に耐えないということになる



集団は流動的なところがある


別の集団の構成員が入ってきたり
構成員が出て行ったりする


個体は
集団を選ぶこともできる


この権利を剥奪するように
集団を裏切るものを征伐するような行動が
進化してきたのだろう


選択の自由の剥奪である


こうした自由を
構成員同士が剥奪し合うことで
組織が太くなり
個人が細くなっている


そのことを
組織員は感じているのだろう
居酒屋で愚痴の花が咲く


「真実は酒の中に在る」
プラトン先生の名言である


なぜ酒を呑むのだろう?



ナリヌワイ氏が亡くなった


身近でも起こり得ることである

組織と個人:道徳的言説と個人的お願い


「こういうことは良いことで
 ああいうことは悪いことです」


世の中には
こうした道徳的言説に満ち溢れている


このような道徳的言説により
人間の行動が制限されている


こうした道徳的言説とは別に
人間の行動を制限する言説に
個人的お願いがある


「こういう状態なので
 こうして欲しい」
「こうした事情なので
 ああしないで欲しい」


こうした個人的お願いには
それを発する者の心が現れている


これに対して
最初の道徳的言説には
それを発する者の心は現れてはいない


社会の心
神様の心
組織の心といったものを
それを発する者が代弁しているといった体裁がとられ
発言者は
自分を棚に置いて
どこかよそよそしくしているところがある


それでいて
その言説を裏切ることは
私を裏切ることではなく
社会を
神様を
組織を裏切ることであるという風な
威圧的なところがある


強制力を強くし
しかも
その言説に伴う責任は
自分ではなく
社会や
神様や
組織に在るのであるから
道徳的言説は
人を支配するには
もってこいのところがある


これに対して
個人的なお願いは
なんとも心もとない


聞き入れれれなければ
「そうですか」と引き下がるしか無いからである


だからなのだろう
道徳的言説の威を借り
個人的お願いをする輩が現れる


そして道徳的理由を背景に
個人的お願いをごり押しする


このごり押しは危険を伴る


それを見破られてしまえば
なんとも哀れて危ういお願いでもあるからである


お願いされた方は
ごり押しされたことに腹を立て
「最初から素直にお願いして貰えれば
 考えたのに」
というようなことにもなりかねない


言葉の中に
自分を入れるのか?
それとも外すのか?


思案のしどころの一つである