ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:私の存在理由としての記録や記憶


記憶がなくなれば
私は私らしさを失うだろう


どんな人に共感し
どんな考えに賛同するのか?


記憶がなくなれば
私は私らしさを失い
人に対しも
考え方に対しも
記憶がある時とは
異なる反応を示すだろう


むろん
記憶を失っても変わらない反応もあるだろう


沁みついた反応は
記憶がなくなったくらいでは変わらない


少なくとも
心臓は動き続けてくれるだろう


心臓の鼓動も私の反応だ


この鼓動に個性があれば
それは私の個性である


この個性は
私の記憶がなくなっても
そうそう消えるものではなかろう


こうした鼓動のような反応にしてみれば
記憶というものは
高々記憶でしかないのである


私の身体の反応は
記憶よりももっともっと深淵な記録に基づいている


細胞一つ一つに刻まれた私という記録である


こうした記録が
私の足の形
手の形
顔かたちを
私らしく維持してくれている


こうした記録も
私の記憶と同じように
反応を
自由度が低く
規律性の高いものにしてくれている
そして
合目的性を高めてくれている


記録が
自然淘汰されながら
合目的性で洗練されて来た


この洗練の歴史が
私の記録や
私の記録の源泉らしい


その源泉の源泉に
私の目的が隠れていよう


私の存在理由も
そこいら辺にあるだろう


歴史にまとわりつきながら
私の存在理由も
運ばれて来たのだろう


そう考えれば
運ぶ何かが消えれば
その存在理由も消え失せるということになる


私は
私の存在理由でもあるということだ


私は
私が存在するために
記録や記憶を洗練させている


私の存在理由にとって
良きものを集め
悪しきものを捨てながら
私を洗練し続けている


だからなのだろう
いる場所で
良きもの悪しきものが変わってゆき
私が少しづつ変わってゆく


春には春の私がいて
秋には秋の私に変わる


記憶がなくなり
やり直すとなれば
私は
誰と親しくなれるだろう
どんな考えに魅力を感じるだろう


今のとおりの私になれるだろうか?


私の存在理由は
こんな危うい時間の流れの中で
緩やかに揺れているようだ


心地よい揺れ心地が幸いだ

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