ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

言葉と意識:言葉が課す盲従と盲信の義務


言葉とその対象は
同じものとして扱われる


同じものとして扱われなければ
言葉は
その対象ではなくなり
根無し草となり
恣意性を取り戻し
意味をなさなくなる


この「同じものでなければならない」という義務において
言葉は意味を成し
会話が成立している


意識ひとつ太陽を得て暖かし


「太陽」という言葉は
暖かさや暑さ
それに明るさなども連れてこなければならないという
義務を背負っているのである



寒空の凍えた月の細き縁


言葉が宇宙を宿す時
その言葉を見て
頭の中に宇宙を作らなければならない


言葉は義務と共に機能しているのである


「この色は赤である」


この「である」は
実は
「とする」と「でなければならない」を含有している


『この色を赤として
 「赤」と言わなければならない』という前提において
「この色は赤である」が成立しているのである


こうした義務により
景色を言葉として表現することが出来
命令の言葉を実践に移すことが出来るのである


言葉と実践が同じものでなければならないから
命令の言葉通りに動かなければならないのである


こうした義務が崩壊すると
言葉はたちまち機能不全に陥る危うい存在である


そんな言葉を守るために
言葉を尊び
言葉の伝統を守り
言葉に従う習慣がなければならない


それが言葉を話す者の義務なのである


そこで
言葉が通じない馬や猫を馬鹿にするのである


言葉の立場からすれば
馬鹿にされ
馬鹿にされることで
言葉を覚えようとさせなければならないのである


人間は
言葉を盲信し盲従する能力が高いらしい


この能力が高いほど
文明が高いということらしい


お金も言葉の一種なのだろう


盲信し盲従しなければ
お金に価値はない


信じる者は救われるのである


こうした盲信と盲従が
言語の恣意性や
文化の恣意性を打破してくれているのである


そして
この盲信と盲従の義務を履行しないものは
猫や馬のように
その恩恵を受けれらず
相対的に
虐げられてしまうのである


ここに言葉の罪としての排除の構造がある

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