ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

私に同梱されるレッテルの数々


私は私である


この文には自由な私を感じる


これには理由がある
次の文をみればわかるかもしれない


私は会社員である


もっといろいろある


私は管理者である
私は指揮者である
私は下僕である
私は経営者である


私は夫である
私は妻である
私は子である
私は母である
私は父である


戸籍はレッテルを安定化するシステムのひとつであり
レッテルの効果として現れる
様々な権利と義務を明示的に維持してゆくツールとなっている


いつのまにか
様々なレッテルが私に付着している
レッテルは服装かもしれない
仮面でもあるだろう


私は私である


この言葉に戻りたくなる時がある


静かな瞑想はそんな時間へのあこがれかもしれない


あなたはあなたである
この言葉にあこがれはあまりない


冷たい人間といわれそうだ
でも
あなたは私のあなたである
私はあなたの私である
こんな言葉を連想させる言葉でもあり
素直になり切れない


私の内部と私の外部
この大きな違いが素直になれない理由だ


身体を認識する情報は私を私にしてくれるのだけれど
外部を認識する情報は私を私のままにしてはくれない
外部から認識される私は私ではなくあなただからである


私は生きるために外部を認識し
私は私を少し譲りわたし
外部からやってくるレッテルを受け入れたりする


このレッテルを剥がすのも私である
そう虚勢を張りながらレッテルを受け入れる


レッテルには裏があり表がある
半と出るか
丁と出るか
レッテルを受け入れた後から
永い時間経過がついてくる


嫌になったら張り替えればいい
ただ外部からその力量が問い正される
それに耐えうるか
それが問題だ


ときにやせ我慢も必要なのだろう


ーーーーーー
メモ
国の三要素は
領土 国民 権力
とのこと


領土は不動産登記制度により管理されている
国民は戸籍により管理されている
権力は三権のけん制で管理される


こんな感じらしい


様々なレッテルの維持管理には手間とお金と知恵をかける価値がある
より多くの人が同じ外部情報をレッテルとして共有する世界ほど
よりスムーズに権利関係が調整されるえる世界になるからだ


スリランカでは
イスラムもヒンズーも仏教もあり
婚姻の形も様々だ
一夫多妻もあれば一夫一妻もある
違う婚姻イメージを持つ人々を束ねるのは
同じ婚姻イメージを持つ人々を束なるより困難に思える
スリランカの民法はどのような婚姻規定を置いているのか
少し興味あるところだ


ありがとうございます。

土地の境界線という人為的概念世界


この境界標とあの境界標を結んだ線がこの土地の境界線だね


このように語られた時の境界線は
人為的な創造物に他ならず
人間の行為なしには語り得ない


この意味で
境界にまつわる人間関係は
人間の創造に基づくものであり
人間が調整してゆくより他にやりようがない


そこで
人はこの調整をする根拠を
人智のなかで探しまわる
陣地は人治により維持される
そんな構図だ


私的自治で解決できなければ
なにがしかの権力に頼ることになる
典型的には裁判だ
武力に訴え刑法に触れるわけにはいかないからだ
犬のようにマーキングをしても
らちは明かない
だから
境界をコンクリートで囲い
はっきりとさせておくと気が楽だ


人はなぜ境界という面倒をわざわざ背負うのだろう


人は自分の身体に関する情報と
自分の接する環境に関する情報を収集し
蓄積したり加工したりする能力を有している
このような能力があるからこそ
こんな面倒なことをしながら生きたいのだろうか


逆に考えれば
こんな面倒なことをしながらも
生きる気力を維持できるのだからしたたかで大したものだ


争ったりする
争いを解決したりもする
先送りもする


こんな面倒によく耐え
それ以上の何か素晴らしいものを求める能力が備えているかのようだ


ありがたいことだ


不平不満はバネなのだろう
跳躍への助走だ


跳ねるために縮む
浮かぶために沈む


ある意味、遠回りな
素晴らしく面倒な能力だ


変化にとんだ柔軟性
そんな思考に人間らしさを感じずにはいられない


ーーーーーー
メモ
「境界のイデア」があるとしたら
それは永遠不変だろうか
それは永遠不変であるべきだろうか
それとも柔軟にして可変であるべきだろうか


境界を国境にすり変えた時
論理学的には同じ回答が返るのだろうか


境界を教会にすり変えたとき
国境を国教にすり変えたとき
どうだろう


モナドが予定調和として
個々の境界に現れては細部にまで調和をもたらしてくれぬのだろうか?


情報の共有化を積み重ね積み重ね
その果ての理想の地に
イデアやモナドがいてくれればありがたい


いいかえると
このような社会的情報共有システムが
世界でひとつだけの情報共有システムになればありがたい
その時
この情報共有システムは
部分として存在する
多数の私という身体的情報共有システムと
うまく協調してくれるのだろうか?


社会的情報と身体的情報は
総論賛成各論反対
このような言葉に代表されるような関係性にあり
厄介をもたらすことがあるからだ


これが誤りならとても平和で穏やかな気分になれそうだ


ありがとうございます。

予定調和の予行演習


九九を習ったのは
小学校の低学年だったろうか


先生に続いて復唱した
確認テストもした


間違えてばかりで嫌になった
覚えてスラスラとそらんじている学友が恨めしかった


もとへ
それ程うらやましくもなくどうでも良かったので
怒られてもどこ吹く風であった


そんなありさまを
父親にひどく叱られ
おかげで
遅々ながら
5年生ころに何とか覚えた


それからは勉強一筋
ということにしておきたい


ともあれ
覚えなければ始まらないことがたくさんある
根拠とか理由とかは二の次でひたすら覚えさせられる
どうしてそうなるの?
それが気になり覚えなけらば先に進めない


素朴な疑問は
教える側からすれば難題だ
覚えてから覚えた意味が身に染みるから
覚える前に聞かれても
いいから覚えろ
そういういう権威主義についつい陥る


このようなジレンマを乗り越え鍛錬して
オーケストラが美しい音色を奏でてくれる


この音の次になぜこの音なのだろう?
作曲者がそう決めたから
それだけで足りるだろうか?
いちいち論考していてはだめだ


演奏してみないといいかどうかわからないものを
考えていてもらちが明かない
ただやみくもに設計通りに音を出す
それを繰り返して行くうちに
予定調和の世界を体現する


実践した結果が理由なのだ


九九も同じだろう


同じルールを皆が持つ
その理由は
実践した後に見えてくる


食わず嫌いではいられない
それが社会参加のチケットなのだろう


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メモ
オーケストラが演奏直前に
個々バラバラに音をだしている
その光景が好きだ
本場の予定調和に向け
個々がそれぞれのパートを調和なく予行している


何かが始まる前の胸騒ぎはこんな様子の反映だろう


ありがとうございます。