ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:言葉の呪縛から人間性を解放する快楽


「うまい」
「まずい」
には
理屈はない


食べると害になるものはまずく
食べると栄養になるものはうまい
という
理屈は在るのだろうが
それは大枠のことで
日常普通に食べるものについては
うまいものはうまく
まずいものはまずいとしか言いようがない


味覚は
言葉よりも深淵の世界に存在しているということだ


子供の頃
「ご飯はあまり好きではない」と言ったら
父親に
「日本人ならご飯が好きなはずだ」と怒られた


何度か
こんなことを言い合った記憶がある


私は
このような会話で
もっともっと
ご飯が好きでなくなり
父親は
もっとご飯を食べるように仕向けてきた気がする


これは
昭和の頃の話だ
平成令和と時代が進むにつれ
日本人のコメ離れが進み
「日本人ならご飯が好きなはずだ」という言葉は
ほとんど聞こえなくなった


私は
「日本人ならご飯が好きなはずだ」
という言葉の呪縛から解放された


日本人になりたければコメを食え
コメを食いたくなければ日本人をやめろ


そんな脅迫じみた呪縛から
解き放たれ
「あまりご飯は好きでないんだ」と
平気で言える世の中になってきた


「あと一歩」
「あと一歩」を歩を進め
山頂にたどり着き
「あと一歩」の呪縛から解き放たれた解放感


「あと一分」
「あと一分」と我慢を重ね
サウナから出て水風呂に浸り
「あと一分」の呪縛から解放された幸せ


こうした
我慢からの解放が
自由の心持をもたらしてくれる


これと同じように
時代が
「日本人ならご飯」という不自由から
私の自由を解放してくれた


時代は
言葉がもたらす呪縛によりできているのではなかろうか?


だから
時代が変わる時
言葉の呪縛から人間性が解放され
ひと時の自由を謳歌するのだろう


ひと時の自由の謳歌に引き続き
すぐに次の呪縛が時代を覆うことになる


また
「一歩ずつ慎重に」
「一歩ずつ慎重に」
山頂から下山するようになり
また
水風呂から冷えた体を持て余しながら
頭の中では
「次は何分サウナに入ろうか?」などと
次の我慢の算段を始める


不自由を
言い換えれば
秩序を求めるのも
人間性の一つのなのだろう


そしてそれに我慢ならなくなるのも
人間性であり
その繰り返しの中から
心臓や肝臓の様に
時代に流されず
より変わらない存在として
素晴らしい何かが熟成してくるのだろう


ここに
自由を求める意義があり
ひと時の解放に
幸せを感じる人間性が残存しているのだろう


完成していないのだ


まだまだ未熟であり
未熟を楽しめということなのだろう


時代は
「まずいものをうまいと言え」と押し付けることがある


そのことを決して忘れてはならない
その上で
まずいものをうまいというのも良し
まずいものをまずいというのも良いのだろう

生命と反応:喉と耳の共進化による会話の調和


話すということと
聞くということは
異なる反応である


話すために出す音は喉から出る
聞くための音は耳から入る


だから
話すことは喉
聞くことは耳の技術によるものだ


この異なる二つの技術が
調和して
会話が成立している


この会話の成立の技術的裏付けが
喉と耳にある


人間の喉と
コウモリの耳
あるいは
コウモリの喉と
人間の耳では
会話は成立しない


人間の喉の出す音の音域と
人間の耳が反応する音域が
ほぼ一致しているから
会話が成立し
聞こえない音を話すと
当然に会話は成立しないことになる


この喉と耳の調和は
イソギンチャクとクマノミの様な
共進化の歴史の賜物だろう


そして
こうした共進化が
親和性を高め
共生や共存を促してきた


コウモリの喉と
人間の耳には
このような共進化が働かず
互いに親和性がないので
離れ離れになっているということだ


もしかしたら
使用する音域の棲み分けにより
共存しているのかもしれない


言語圏が混じわらないように
民族が棲み分けをするように
コウモリの耳と
人間の喉は
互いに避け合っているのかもしれない


耳と喉は
互いに淘汰選択を重ねて
今の調和世界を築いて来た


右手や左手も
脳みそと
互いに淘汰選択を重ねながら
今の調和を築いて来た


共通の目的の元
淘汰選択を重ねてきたのだ


コウモリの喉と
人間の耳は
共通の目的を持たず
むしろ
避け合うことで
それぞれの目的を達成しやすくしてきた


こう書き進めながら
「友達を選びなさい」という言葉を思い出した


選ぶということは
選ばれるということがなければ
共進化も
親和性も生まれてこない


それでも
「友達に選ばれなさい」という言葉はあまり聞かない


「友達を選びなさい」という言葉の中に
「友達に選ばれなさい」という言葉が
すでに含有されているのかもしれない


それに
選ばれる努力は
人に言われてすることではなく
自ら考えなければならないことなのだろう

生命と反応:私の存在理由としての記録や記憶


記憶がなくなれば
私は私らしさを失うだろう


どんな人に共感し
どんな考えに賛同するのか?


記憶がなくなれば
私は私らしさを失い
人に対しも
考え方に対しも
記憶がある時とは
異なる反応を示すだろう


むろん
記憶を失っても変わらない反応もあるだろう


沁みついた反応は
記憶がなくなったくらいでは変わらない


少なくとも
心臓は動き続けてくれるだろう


心臓の鼓動も私の反応だ


この鼓動に個性があれば
それは私の個性である


この個性は
私の記憶がなくなっても
そうそう消えるものではなかろう


こうした鼓動のような反応にしてみれば
記憶というものは
高々記憶でしかないのである


私の身体の反応は
記憶よりももっともっと深淵な記録に基づいている


細胞一つ一つに刻まれた私という記録である


こうした記録が
私の足の形
手の形
顔かたちを
私らしく維持してくれている


こうした記録も
私の記憶と同じように
反応を
自由度が低く
規律性の高いものにしてくれている
そして
合目的性を高めてくれている


記録が
自然淘汰されながら
合目的性で洗練されて来た


この洗練の歴史が
私の記録や
私の記録の源泉らしい


その源泉の源泉に
私の目的が隠れていよう


私の存在理由も
そこいら辺にあるだろう


歴史にまとわりつきながら
私の存在理由も
運ばれて来たのだろう


そう考えれば
運ぶ何かが消えれば
その存在理由も消え失せるということになる


私は
私の存在理由でもあるということだ


私は
私が存在するために
記録や記憶を洗練させている


私の存在理由にとって
良きものを集め
悪しきものを捨てながら
私を洗練し続けている


だからなのだろう
いる場所で
良きもの悪しきものが変わってゆき
私が少しづつ変わってゆく


春には春の私がいて
秋には秋の私に変わる


記憶がなくなり
やり直すとなれば
私は
誰と親しくなれるだろう
どんな考えに魅力を感じるだろう


今のとおりの私になれるだろうか?


私の存在理由は
こんな危うい時間の流れの中で
緩やかに揺れているようだ


心地よい揺れ心地が幸いだ