ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:環境への適応戦略としての狡猾


集団が形成される時
その集団の中の個人は
集団員としての人格を装うようになる


恋人
家族
地域
地方
会社

同好会
宗派


様々な集団があり
様々な人格の装いを
着替えながら
社会を行き来していても
どれが
本当の人格なのかわからなくなってしまうようなことなく
どれもこれもが
自分の人格であり続けてくれているから
人格には不思議なところがある


節操が無い


イソップ童話の
獣の国と
鳥の国を行き来するコウモリのように
様々な社会を行き来しながら
自分であり続けている


行き来しながら
それぞれの場所で
強烈な個性を発揮し続ける猛者もいるけれど
大抵の人は
周りにあわせて
自分を彩る


カメレオンのような才能だ


しかし
ともすると
彩るべき装いを失敗し
恥をかく


時に
隠しておくべき人格が
ほろりと漏れてしまうからだ


それも
人間らしい愛嬌となる


そんな愛嬌者になるためには
強烈な個性を隠匿していた方が得策だ


緩やかな個性なら
失敗しても笑って済ませられるが
強烈な個性だとそうもいかない


様々な場面に応じて
緩やかな個性をそつなく演じる


こんな大人の事情が
まだわからない子供には
こうした振る舞いが
「大人は狡い」と感じさせてしまうのだろう


「いうこととやっていることが違っている
「さっきと違うことを言っている」


ああ、、、
言うことを変えなければならないから
あまり強いことを言えずにいるのだ、、、
理想を言っても
その通りにはできないのだ、、、


社会の道理は
場所場所で違ってしまうんだよ、、、


「そうだね
 狡いね」


冬には冬の装いがあり
夏には夏の装いがある様に
人格にも
お着替えが必要だ


「言うことが違う」と責めても
争いになるだけだ


「事情が変わったから仕方ないよ」


、、、事情がコロコロ変わる、、、


「そうだね
 狡いね」


本当の人格は
表面に在る装いの人格の内側で
黙りつづけている


黙りつづけ
誰にも気づかれないまま
本当の人格が
子供のように
「お前、、、変だよ」という目をむける


「そうだね
 狡いね」


私は気弱に
「そうだね
 狡いね」と繰り返す


生存のための適応戦略だ

生命と反応:感覚の正当性と理性の正当性


仮に
リストカットすると快感が得られ
性交により激痛がもたらされるとすると
そのような動物は
速やかに
その生息数を減らし
絶滅に至るだろう


このことは
感覚の不適切な発露という
内的な要因により死滅することを示している


なにも
絶滅は
環境の変化といった
外的な要因により引き起こされるばかりでないだろう


自然淘汰は
外的要因である環境への適応ばかりではなく
内的な反応の組み合わせという
自己と自己の愛称というような
内的適応をも促している


正常、異常ということでいうと
リストカットに快楽を覚えることは異常であり
性交により激痛がもたらされることもまた異常であり
正常と判断できるということに対して
内的適応が整っているということが出来るだろう


「生きるために」である


こうした内的適応の一環として
私は
怒りを覚えたり
幸せを感じたりしているらしい


小春日和の縁側は
心地よいし
傘もなく
冷たい雨にさらされると
切ない気持ちに覆われる


生きようとする環境が
私の内側に形作られている


こうした外堀に囲まれた内側で
私の理性があれこれと画策しているようだ


私の理性は
時にその外堀の向こうに何があるのか覗いてみたくなるのだが
その向こう側に行こうとしても
その一歩も二歩も手前で引き返し
遠くからその外堀を眺めている


それなものだから
戦争に恐怖を覚える


恐怖する場所から
如何に離れるべきか
理性は考える


これが正常であり
戦場へ行きたがるのは異常なことだろう


それでも戦争が継続しているのは
このような異常が成立しているからに他ならない


戦争を正常とするような
理性的な工夫が
幾重にも敷設されているからなのだろう


集団が
個性を押しつぶすのは
そんな工夫の成果ということになるのだろう


集団にとっての内的適応は
集団が生き残る目的おいて精査され
個人が生き残ることより優先されよう


集団の尊厳と
個人の尊厳のバランスが
集団と個人の間で葛藤を繰り返し
時代の遷移が繰り返されてきた


個人にとって
集団の内的適応は環境に過ぎない


しかし
この集団が作る環境が
生きるために
より重視しなければならない環境であることを
否むことはできない


「熊より人間の方が恐ろしい」


「お天気より
 パートナーの機嫌が気にかかる」


様々な言葉が
他者が作る環境の重要性を物語っている


この重要性を認知するゆえに
理性は
苦痛を忍耐することになる
そして
快楽を我慢することになる


理性的であろうとするとき
忍耐と我慢が要求される


リストカットの激痛を快感に変え
性交の快感を激痛に変えるほどの力は
理性にはないのだろうが
それに近いような逆転が
戦争の場において起きているのだろう


正確に言えば
起こさせようとされているのだろう


企業戦士という言葉がある


ビジネスも戦争だ


個人の尊厳より
集団の尊厳をより重視する局面で
戦争が揶揄され
自己犠牲が推奨される


言うに及ばず
集団に従わなければ
環境に適応できない敗者になりやすい


それでも
それに抗する何かを
個人の心の奥底に
大切に残しおかなければならないだろう


けだし
集団の独裁が
それを破壊しようと目を凝しているかだ

生命と反応:自由の剥奪としての法支配


私の心臓と
私の肝臓が
助け合いの関係を反故にしてしまうと
私は死ぬことになる


助け合いの消滅と共に
私も死ぬのだ


社会において
人と人の関係を維持させているものに
法律がある


法律は
個人に対し
「自由の剥奪」として作用し
この結果としての社会秩序を通じて
「個人を保護する」という効果を発揮している


だから
効果を発揮するような「自由の剥奪」が模索され
その剥奪に見合った効果が得られなければ
悪い法律ということになる


訳もなく暴れる人は
個人の自由を謳歌しすぎているので
この自由を剝奪して禁固刑にしたり
社会の役に立つ仕事するために
自分の時間をすり減らしている人に
社会として報酬を与えたり
法律は様々な形で自由をはく奪し
それにより社会を維持する仕組みを提供している


痴呆症になると
制御が利かず
あまりにも自由になるから
社会的に自由を剝奪しなければならなくなる
その結果として
痴呆症にり患した人を保護する効果を発揮するように
法律は模索している


騙されたり
徘徊する自由を剥奪する


常識に従えなくなれば
それなりに自由を制限しなければ
不利益を被ることになるので
法に依る加護が必要であり
法による自由の剥奪が正当化されているようだ


子供も
自由であり
保護の対象になっている


加えて
子供には長く続く将来があることから
少年の更生という効果を期待して
社会制裁の自由が制限されている


社会も
個人も
自由を奪われることで
恩恵を受けることを期待しているということだ


心臓も
肝臓も
自由を制限され
決められた仕事をこなしている
休みたいとか
遊びたいとか
そんなことを思いもせずに働いている


身体は
そんな強権的な関係が成立している場であるが
社会は
そこまで強権的になれはしない


自己決定権を含む尊厳が
社会にばかりあるのではなく
個人にもあるので
個人の自由が許されなければ
社会批判が高まるからだ


それにしても
私は私の何を自己決定しているだろう


私の大切な何か?


私の尊厳、、、


こんな重くて難問は
放っておくのも悪くなかろう


そうだ
のんびり露天風呂につかりに行こう


これも大事な
自己決定権であり
尊厳であるに違いあるまい


きっと
尊厳は
一時の法支配からの逃避行を誘致し続けている
不埒な存在に違いない


けだし
私の
生物学的な個人の尊厳は
法支配という表面的なものではなく
もっともっと長い期間を用いて熟成された
もっともっと深淵な世界の中に在るからに相違ない