ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:アイデンティティー故の右往左往


アイデンティティーは
「どんな反応をするか?」を
総和した概念であろう


大豆の芽は
重力に逆らい
空に向かい伸びてゆくアイデンティティーと共にあり
大豆の根は
重力に従い
土地の中への伸びてゆくアイデンティティーと共にある


そして
その大豆は
太陽の光と
土の栄養や水を取り込み
それを生命体として利用する


芽のアイデンティティー
根のアイデンティティー
その他諸々のアイデンティティーが
相補的に結合し
一つの大豆の生命体としての
アイデンティティーを存続たらしめている


自分らしさを維持するために
様々な自分を実践しながら
一つの生命体を維持している


空に向かいながら
地に向かうという矛盾は
表面的なものであり
もっと根源的な
命を紡ぐという目的のために統合されている


敵対することも
共闘することも
実は
表面的なことなのかもしれない


社会のアイデンティティーと
個人のアイデンティティーは
異なるアイデンティティーであるから仕方がない


どれが最も本質的なアイデンティティーなのか?


そんな無益なことを結論づける暇を与えないかのように
様々なアイデンティティーが
脳裏に現れ
横切り
消えてゆく


多細胞生命体の宿命なのだろう


時に空に向かい
時の地に向かい
総和的には矛盾をはらみながら
局在局在に対応してゆくより仕方がない


社会のアイデンティティーも
気まぐれに時代を変えているではないか


ちょんまげが良しとされたり
ロン毛が流行ったり忙しい


黒髪が良ければ
茶髪も良い


そんな表面的なアイデンティティーにこだわりを捨てなければ
頑固な年寄りになるのだろう


腰に手ぬぐいをぶら下げて
いがぐり頭の学生服を見ることは無くなった


生命が環境に適応する姿は
こんな表面的なアイデンティティーに過ぎないだろう


動物の内臓や神経
植物の導管や維管束は
多くの動植物で基本的に維持されている


私も
私の内臓や
私の神経の平穏のために
社会と対峙しているようだ


この平穏のために
社会に報じている


環境への適応だ


こうして
表面的なアイデンティティーに
右往左往を繰り返す

生命と反応:必然は周辺に誘導されている


必然が
周辺に誘導されながらやってくる



赤色は「赤」と表現されることは
必然的なことで
赤色を「黒」と表現してはならない


この必然性により
色の表現の正当性を付与しているのだが
この必然性は
良心や友人の教えにより
幼少期に獲得した必然性であり正当性である



両手を
手のひらを見ながら眺めると
親指が両端に配置されている


右手の親指は右側に
左手の親指は左側にある
そして
手の甲を見ながら眺めると
右手の親指は左側に来て
左手の親指は右側に来る


こうした指の配置の必然性は
発生過程で周囲の組織から誘導され形成されたものである



酵素反応による化学反応は
反応の主体は反応する基質であり
酵素自体はその主体の周辺に位置する


しかし化学反応の主役は酵素である


変化し動いてゆく化学物質と
大きく変わらずにその反応を見送る酵素が
生体反応を演出している



環境が
生命進化を誘導している


人間もまた
自然災害等の環境に右往左往しながら
科学技術を進化させている


今よりも酸素濃度が低く
二酸化炭素濃度が高い地球ではなく
今の環境に適した科学技術を模索している



必然は
周辺に誘導されている


だから
周辺に変化が生じると
必然にも変化が生じる


ある日突然
世間の目が変われば
私もその目に応じて変わらなければならぬのだろう


自己矛盾を
世間のせいにしながら
私は変わらなければならぬのだろう


柔軟に生きるという戦略だ


生まれた場所に馴染み
誘導されながら
どうとでもなれる
そんな柔軟に切られる能力を獲得してきた
人間の戦略である



必然は
周辺に誘導されている


周囲に任せて生きてゆけばよい


ただ
それだけでは
変わりゆく周囲に裏切られても
泣く事しか出来ない


変わりゆく周囲を先読みしたくなる


そこに
求めるべき自由があるだろうか


そうなれば
ありふれた必然から脱出し
ありふれた日常から飛び出して
冒険がはじまる


まだ見えぬ未来への冒険である

生命と反応:偶然と必然の間を眺める


なぜ土星には輪があり
木星には大きな赤斑があるのだろうか?
この大赤斑は
なぜ北半球ではなく南半球に在るのだろう?


金星と地球の間に
大きな惑星がないのはなぜだろうか?


エベレストのように高い山が
日本に無いのはなぜなのだろうか?


富士山が
もう少し北にできてもよかったのではなかろうか?


様々な潜在的可能性の中で
今が存在している


大きなケヤキがはえている場所に
大きなエノキがはえていてもよかったのに
今は大きなケヤキがはえている


去年タンポポがはえていた場所に
今年はクローバーがはえている


去年と同じように
タンポポがはえてきてもよさそうたっだのに
今年はなぜかクローバーが生い茂っている


10年も前には
タンポポではなく
今年と同じようにクローバーが生い茂っていたのだから
今年は10年前に戻ったということなのかもしれない


何か私にはわからない微妙な違いが
タンポポではなく
クローバーに味方したのだろう


草刈りの時期の微妙なずれが
こうした結果をもたらしたのかもしれない


よく草刈りをする土手には芝のような
刈られてもすぐにはを伸ばす植物が生え
あまり草刈りをしない土手には
ヨモギやブタクサといった
成長は早いが
刈られると次の芽を伸ばしずらい植物が生い茂っている


こうした土手と同じように
私の身体の中でも
筋肉細胞と
脂肪細胞が
身体を占める場所を争ているのかもしれない


どちらの細胞が増え
どちらの細胞が減るのかは
草刈りではなく
私の生活態度で大きく変わるようである


どうなりたいのか?
どうしたいのか?
そのためには
何をしなければならないのか?


木星や土星の在り様は
人間の手でそうもできない力で維持されているのだろうが
私の周りには
私の身体を含め
私の在り様で変わってゆく世界が広がっている


無論
私の手には及ばないことも多々あるけれど
それでも
私の手で変わることを様々な局面で実感できる


そうしたことは
小さなことだ


こんな小さなことに右往左往しながら
生き物たちは命を継いできた


そんな小さなことたちに囲まれて
私も生きている


ゴルフボールを打った


そのボールは
意に反して右に曲がり
木にあたり
左にはねて
フェアウェーに戻ってきた


偶然と必然の間を行き来しながら
私は悲しみ
そして喜ぶ