ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:好きから始まる愛の物語


子供のころから
虫が好きだった


むろん
ご飯に蠅がたかれば
いやな気がしたし
蚊に刺されれば痒いから
プーーーンと蚊が近くに飛んで来たら
パチリと何の躊躇もなくつぶして殺した


でも
虫は好きだった


もっと正確には
蝶が好きだった


蝶になるために
芋虫が葉をたくさん食べる


そんな芋虫のために
芋虫の好きな葉を山の中に取りに行ったり
ケージの中に巻き散らかされた糞を片付けてあげた


だからなのだろうか
「虫けらのようにただ生きていても仕方がない」
というような言葉に
子供ながらに
大きな違和感を覚えていた


人生で
何かを為さなければならない
というような大袈裟なことは
何もない


それでよいと思っていた


虫けらのように
葉陰に隠れ
危険を避けながら
何とか生きて来た


戦争がありませんようにと祈りながら
生きて来た


それにしても
なぜ芋虫は
蝶になるのだろう?


蝶にならなければならないのだろう?


蝶は
なぜ芋虫として大きくなるのだろう?


芋虫として死んでゆく命に
意味はあるのだろうか?


子供の頃
芋虫として死んでゆく命を悲しんだ


蝶に育てられなかった自分の力なさを嘆いた


蝶になったら
すぐに殺して標本にしたかったからだ


私に捕らえられた芋虫は
いずれにしても
私に殺された


私は
この様に虫が好きだった


好きになるということは
意のままにしたいという心をも携えている


恐ろしいことだ


私は牛肉が好きだ


牛が好きなのだろう


牛も私を好いてくれればありがたい


そうなれば
愛が生まれよう




私は今は芋虫を飼っていない


その代りということでもないが
亀と猫を飼っている


彼らは幸せだろうか?


芋虫と同じような憐れみと同情を
彼らにむけ
今の境遇を過ごしている彼らを
称賛しなければならないだろうか?


私は
私自身に対しても
同様な同情と称賛を向けなければならないのかもしれない

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