ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

生命と反応:利他的行動がもたらす恵のベクトル


利己的行動は嫌われ
利他的行動は好まれるというが
利他的行動の恵が
私ではなく
他者に向かうと
そんな利他的行動をやらないでほしいと思うことがある


その恵みが
私に向かえばよいのに、、、


そんな思いが頭をよる


なんであいつにばかり甘くて
俺にはつらく当たるのか


あいつにばかり運が向いており
俺には運がない


そんな不満を思うのは
誰しも
利他的行動の恵が自分に向かうことを望んでいるからだ


だから
利他行動の恵がどこへ向けられるのか?
そのベクトルに応じて
その行動の良否が分かれることになる


この様なことから
利他的行動者に対し
その受益候補者は積極的な行動を起こすことになる


受益候補者は
利他行動者に対して
利他行動を返すなどの
敬意を払う反応を見せるのだ


この反応が功を奏して
より多くの利他行動が自身にむけられるようになると
受益者はより多くの敬意を返すことになる


こうした関係が
固定化し
確固たる互恵的関係が成立しているのが
身体内を構成する各臓器の関係である


心臓は裏切らない


腸も腎臓も肝臓も裏切らない


裏切るとすれば
それは
病気などでどうしようもない事態の時である


こうした臓器間の関係に
真の愛の姿があるということが出来るだろう


互いに信頼を寄せあい
邪念を抱かず
その利他の恵の向かう先は体内の臓器に限られ
嫉妬が生まれる隙がないほどに
強固な関係が築かれている


それぞれが
恵を受けるがために
利他を注いでいる


だから
恵を受けれないということになると
利他を注ぐ目的がそがれるということになる


心臓が動く目的は
血液を各臓器に巡らせるということの外に
心臓が栄養補給を受けるということがある


この後者の目的が得られなくなったとき
心臓は動くのをやめることになる


目的には
利他と
恵己の二種を観察しなければならない


この利他と恵己の連なりの中で
反応が循環し
その濃淡を境として
システムという存在の単位が認知されている


愛の連なりの濃淡が
存在の単位として認知されているということだ


愛の数だけ
存在は多様に存在しているということだ


愛の種類で
存在が分類されているということだ


私は
たくさんの愛で構成されている


脳には脳の愛があり
心臓には心臓の愛がある
それぞれの細胞も
それぞれの愛で構成されている


こうした濃い愛に比べ
私の外へ向かう愛は薄いものだ


だから
私という単位がある


他者もそうなのだろう


だから
愛に飢えることにもなるのだろう


社会を形成する愛は
それほど強く濃いものではない


にもかかわらず
それを強く濃いもののように仕立てると
人間性を抑圧することになるということを
権力のある人は理解しなければ
幸せな支配は実現できぬのだろう


権力者が仕立て上げる仕組みにより
恵はどのように流れてゆくのだろう


正義が
この恵の流れを作る理屈ではなく
その恵みの流れそのものであればと
祈りたい

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