ルアーなお金たち、言葉たち、命たち

砂上の楼閣を上手に維持する共役反応の数々に感謝です。ルアーは反応の連鎖の象徴です。

言葉と意識:同じでないものが同じである


視覚などの感覚擬制や
言葉をあてがう言語擬制の様な同一化擬制は
生命のセントラルドグマにおいても成立している


DNA塩基配列が
アミノ酸を擬制しているのである


業務マニュアルが
実践する業務と同一でなければならないのも
同一化擬制に他ならない


同じでないものを
同じであるとすることで
様々な秩序が能動的に維持されている


設計図とそれに基づく製品も
同一化擬制により
その秩序が保たれている


私の顔かたちが
私の様であり続けるのも
私の行動が
私の様であり続けるのも
同一化擬制により何らかの形で擬制された私が
私を制御しているからに違いない


私は
私と
私を擬制している何かを循環しながら
私を維持しているらしい


この循環にかかわる経路全てが私なのだ


どれが私ということはなく
擬制により鏡に映った虚像の様な私も含め
全てが私なのだろう

言葉と意識:2つのconstructive identification


言葉は
その対象と同一なものとみなされることにより
成立している


視覚も
その対象と同一なものとみなされることにより
成立している


この2つの同一化の擬制により
見られている太陽と
「太陽」という言葉が同一なものとみなされる


外に在る太陽=意識の中に在る太陽
意識の中に在る太陽=太陽という言葉
よって
外に在る太陽=太陽という言葉


この演繹は
意識を仲介として成立している


逆に言えば
意識な機能していない状態では
外に在る太陽=太陽という言葉
という同一化擬制は成立しないのである


ギラギラ輝く本物の太陽が
言葉であろうはずはない


それを
意識が
同一なものとして扱うのである


beの鎖がつなげるのである


太陽は熱い
熱いは温泉
よって
太陽は温泉である


こんなおかしな論理のように
意識が
本物の太陽を
太陽という文字と同一にしているのである


このおかしな論理式を
本物の論理式とすることで
言語は成立している


目に見えている太陽は
あくまでも
目に見えている態様であって
本物の太陽ではないことを忘れ
本物の太陽と思い込んで眺めている


このような幻想において
言語も成立しているということである


視覚がとらえているのは
光だけなのである


太陽そのものをとらえてはいないのである


それでも
それが太陽である


中身がない太陽を眺め
全ての太陽を眺めているようなものである


この中身を充実させようと
太陽をいろいろな角度から観察し
その観察を記録し考察し
太陽という文字に
さらに言葉を尽くし本物の太陽に近づけようと
科学的な努力が重ねらているが
いくら文字を重ねても
太陽にはならない


文字は文字である


それでも
私には
私の意識の中の太陽しかない


視覚や文字であらわされた太陽である


そんな同一物として擬制された太陽にしか
私はたどり着かないのである


空即是色であり
存在は同一化擬制の賜物ということになる

言葉と意識:言葉が課す盲従と盲信の義務


言葉とその対象は
同じものとして扱われる


同じものとして扱われなければ
言葉は
その対象ではなくなり
根無し草となり
恣意性を取り戻し
意味をなさなくなる


この「同じものでなければならない」という義務において
言葉は意味を成し
会話が成立している


意識ひとつ太陽を得て暖かし


「太陽」という言葉は
暖かさや暑さ
それに明るさなども連れてこなければならないという
義務を背負っているのである



寒空の凍えた月の細き縁


言葉が宇宙を宿す時
その言葉を見て
頭の中に宇宙を作らなければならない


言葉は義務と共に機能しているのである


「この色は赤である」


この「である」は
実は
「とする」と「でなければならない」を含有している


『この色を赤として
 「赤」と言わなければならない』という前提において
「この色は赤である」が成立しているのである


こうした義務により
景色を言葉として表現することが出来
命令の言葉を実践に移すことが出来るのである


言葉と実践が同じものでなければならないから
命令の言葉通りに動かなければならないのである


こうした義務が崩壊すると
言葉はたちまち機能不全に陥る危うい存在である


そんな言葉を守るために
言葉を尊び
言葉の伝統を守り
言葉に従う習慣がなければならない


それが言葉を話す者の義務なのである


そこで
言葉が通じない馬や猫を馬鹿にするのである


言葉の立場からすれば
馬鹿にされ
馬鹿にされることで
言葉を覚えようとさせなければならないのである


人間は
言葉を盲信し盲従する能力が高いらしい


この能力が高いほど
文明が高いということらしい


お金も言葉の一種なのだろう


盲信し盲従しなければ
お金に価値はない


信じる者は救われるのである


こうした盲信と盲従が
言語の恣意性や
文化の恣意性を打破してくれているのである


そして
この盲信と盲従の義務を履行しないものは
猫や馬のように
その恩恵を受けれらず
相対的に
虐げられてしまうのである


ここに言葉の罪としての排除の構造がある